興国寺(読み)コウコクジ

デジタル大辞泉 「興国寺」の意味・読み・例文・類語

こうこく‐じ【興国寺】

和歌山県日高郡由良町にある臨済宗の寺。山号は鷲峰山。安貞元年(1227)開創の西方寺を起源とする。正嘉2年(1258)真言宗から禅宗改宗。開山は無本覚心。慶長年間(1596~1615)和歌山藩主浅野幸長により中興

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日本歴史地名大系 「興国寺」の解説

興国寺
こうこくじ

[現在地名]赤池町上野

福智ふくち(九〇〇・八メートル)の南西麓に位置する曹洞宗寺院。山号は天目山、本尊は釈迦如来。寺伝によると、「白鳳五年」に教順が福智寺(天台宗)を草創したことに始まり、鎌倉時代末期に荒廃した同寺の跡地に無隠元晦が天目山宝覚ほうがくホウガクジ禅寺(臨済宗)を建立したという。元晦は弘安六年(一二八三)弓削田ゆげた(現田川市)に生れ、俗姓は大蔵氏という。聖福しようふく(現福岡市博多区)の明窓宗鑑により受戒。延慶三年(一三一〇)渡元して天目山宗正寺(浙江省)の中峯明本より法灯を継承し、嘉暦元年(一三二六)に帰朝。その後は、豊後守護の大友貞宗の招聘により筑前顕孝けんこう(現福岡市東区)二世住持となり、聖福寺、京都建仁けんにん寺などの住持を勤め、京都南禅寺の二一世住持に迎えられた。その後は壱岐海印かいいん(現長崎県芦辺町の安国寺)を草創して第一世の住持となり、晩年故郷に帰り、宝覚寺を建立、延文三年(一三五八)一〇月一七日に死去したという(以上「豊鐘善鳴録」巻一)。しかし観応二年(一三五一)と推定される九月二一日の一色直氏書状(興国寺文書/南北朝遺文(九州編)三)では、足利直義の等身地蔵尊を京都から九州に運送してきた知らせを受けた九州探題一色直氏が「宝覚寺方丈」に路次の保障をしており、遅くとも観応以前に同寺は存在していた。


興国寺
こうこくじ

[現在地名]須坂市小山 南原町 東谷

小山こやま村東部臥竜がりゆう山を北背にし、西にじよう山を控え、南は百々どど川に面す。参道はいち川南岸に達していたとも伝えられる。臥竜山と号し、上野国碓氷郡五閑村曹洞宗長源寺末。本尊釈迦如来。

寺伝に明応二年(一四九三)長源寺の開山天英祥貞の創建開基という(日本洞上聯燈録)。宝永二年(一七〇五)再鋳鐘銘(興国寺旧蔵)に、「信陽高井郡椚原くぬぎはら庄小山郷須田邑臥竜山興国禅寺、堂前用、当寺開山天英祥貞叟、鋳置者也、時永正二歳四月二十三日」とある。


興国寺
こうこくじ

[現在地名]由良町門前

門前もんぜんの北部、山裾の小高い地にある。鷲峰山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。鷲峰開山法灯円明国師行実年譜によれば、将軍源実朝の家臣葛山五郎景倫が、実朝の死後その菩提を弔うために安貞元年(一二二七)に創建した寺院で、初め西方さいほう寺と称して真言宗であった。景倫は実朝の命により、入宋のため筑前国博多に下っていたが、実朝の死に接し剃髪、法名を願生と名乗り、高野山金剛三昧こんごうさんまい院に住して将軍の菩提を弔った。これを聞いて実朝の母政子は景倫に由良荘地頭職を与えたという。願生は承久三年(一二二一)由良に入り、安貞元年西方寺を建立、延応元年(一二三九)後鳥羽院が没するとその菩提所にしたともいう。


興国寺
こうこくじ

[現在地名]富山市布市

臨済宗国泰寺派寺院で、山号は太平山。本尊は釈迦如来。桃井直常が興国年間(一三四〇―四六)に建立したという。興国寺安置の桃井直常の位牌は天授二年(一三七六)六月二日銘をもち、「興国寺殿仁沢宗儀大禅定門」とある。寛文一一年(一六七一)の東福寺末派僧衆掛塔僧籍(東福寺文書)によれば開山は秀峰尤奇で、京都東福寺栗棘派である。秀峰尤奇の師は崇聖すうせい(万見郷あるいは五福金屋所在、のち廃寺)二世竺山至源。ただし中世末には京都南禅寺ともかかわりをもち、万治二年(一六五九)以前に法灯派(紀伊興国寺を本山とする)国泰こくたい(現高岡市)末となっていたようである。


興国寺
こうこくじ

[現在地名]上里町長浜

神流かんな川右岸の平野部、下郷しもごう地区の集落内に位置する。大平山と号し、黄檗宗。本尊は薬師如来。上野国黒滝山不動寺(現群馬県南牧村)の末寺。同寺の潮音が当地を訪れた際、周辺には一寺もなく、薬師如来が祀られた簡素な堂宇があるのみであったことから、寛文五年(一六六五)弟子の観月を開山とし、堂宇を大平山興国寺と改めたと伝える。


興国寺
こうこくじ

[現在地名]長岡市千手二丁目

曹洞宗、大平山と号し、もと興国庵と称したが、正保三年(一六四六)長岡藩主牧野家の宰臣牧野市右衛門正直が大檀那となり、広壮な堂宇を再建して興国寺と改めた。万治年中(一六五八―六一)に時の住職がある夜霊夢を感じ、翌朝柳原やなぎはら辺りのあか川に浮ぶ船の中から銅像の観音三三体を拾いあげ、当寺に安置した。

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改訂新版 世界大百科事典 「興国寺」の意味・わかりやすい解説

興国寺 (こうこくじ)

和歌山県日高郡由良町にある臨済宗法灯(ほつとう)派の本山。山号は鷲峰山。前身は1227年(安貞1)葛山願性(くずやまがんしよう)の創建した西方寺であるが,58年(正嘉2)高野山禅定院住持であった無本覚心が招かれ,禅寺にあらためて開山初祖となった。覚心の風をしたう僧衆が雲集し,孤峰覚明(こほうかくみよう),高山慈照など多くの禅傑が輩出し,いわゆる法灯派の中心道場として繁栄した。しかし,覚心没後しだいに衰微し,兵火によって荒廃したが,1601年(慶長6)浅野幸長の外護により復興された。1889年(明治22)妙心寺派に属したが,1956年独立の本山となった。覚心は在宋中普化(ふけ)宗をも学び,帰朝にさいし普化の四居士を伴い,興国寺山内の普化庵に住まわせた。これが日本の普化宗の濫觴(らんしよう)といわれる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「興国寺」の意味・わかりやすい解説

興国寺
こうこくじ

和歌山県日高郡由良(ゆら)町門前にある臨済(りんざい)宗妙心寺派の寺。鷲峰山(しゅうほうざん)と号し、詳しくは開山興国寺、俗に由良開山という。もと法燈(ほっとう)派の根本道場であった。1227年(安貞1)紀伊国由良庄(しょう)の地頭葛山景倫(かずらやまかげとも)(出家して願生(がんしょう))が源実朝(さねとも)の菩提(ぼだい)のために建立したもので、初め西方(さいほう)寺と称した。願生は入宋(にっそう)する法燈国師(心地覚心(しんちかくしん))に、旧主実朝の遺志によりその分骨を宋国の雁蕩山(かんとうさん)に納めることを請うた。この約束を果たした法燈国師は、帰国後の1258年(正嘉2)願生に招かれて由良の西方寺に入り、寺名を興国寺と改めた。戦国時代に一時荒廃したが、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)領主の浅野氏が復興した。寺宝に木造法燈国師像、絹本着色法燈国師像(いずれも国指定重要文化財)などがある。

[菅沼 晃]

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事典・日本の観光資源 「興国寺」の解説

興国寺

(福岡県田川郡福智町)
福岡県文化百選 歴史散歩編」指定の観光名所。

興国寺

(長野県須坂市)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の興国寺の言及

【由良[町]】より

…平安末期には蓮華王院領由良荘が置かれた。鎌倉前期には興国寺(臨済宗法灯派本山)が開創され,開山住持覚心が宋より普化(ふけ)尺八を伝えたことから,虚無僧の本寺ともされた。江戸時代,網代(あじろ)と江奈には紀州藩の二歩口役所が置かれていた。…

※「興国寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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