妙楽寺(読み)みようらくじ

日本歴史地名大系 「妙楽寺」の解説

妙楽寺
みようらくじ

[現在地名]博多区御供所町

臨済宗大徳寺派、石城山妙楽円満禅寺と称し、本尊釈迦如来。江戸時代の御供所ごくしよ町の東側に位置し、北に聖福しようふく寺、南に承天じようてん寺が並ぶ。寺伝によれば、正和五年(一三一六)に博多の居民がおき浜に一宇を築いて月堂宗規を請じた。貞和二年(一三四六)庵を改め仏殿を造営し宗規を開山として妙楽寺が成立。寺地は元寇防塁が築かれていた所なので、石城山と称したという(「続風土記」など)。ただし元僧の明極楚俊が元徳二年(一三三〇)に作成した「大応国師像賛」に「妙楽方丈規長老請賛」とあるので、妙楽寺の成立は貞和二年以前にさかのぼるかもしれない。宗規は大宰府の人で、崇福そうふく寺の南浦紹明(大応国師)の弟子。崇福寺・聖福寺、竜翔りゆうしよう(現京都市北区)などの住持を歴任し晩年は当寺に住した。宗規の弟子無我省吾は師に従って九州に下向。師の退隠休息の退居寮として呑碧どんぺき楼を創建しているが、同楼は海に臨む風雅な建物で、博多湾に出入りする船舶の灯台のような役目も果したとみられている。省吾は宗規の没(貞治二年)後、再び入元し、洪武七年(一三七四)に杭州府霊隠寺の見心来復に請うて「石城山呑碧楼記」を撰してもらっている。


妙楽寺
みようらくじ

[現在地名]能登川町伊庭

伊庭いばのほぼ中央に位置する。恵日山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。方約一町の周囲に環壕をめぐらし、山門の左側手前より浄福じようふく寺・法光ほうこう寺、右側手前より源通げんつう寺・誓教せいきよう寺の寺中寺院が並び、正面の本堂西側には親鸞分骨堂が位置するという寺観であった(明治二九年「明楽寺境内之図」寺蔵)

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔創立〕

寺伝によれば、七世紀の建立と藤原不比等・定慧法師との関係を伝承し、一〇世紀には天台宗であったという。真宗寺院としての出発は真宗仏光寺派本山仏光ぶつこう(現京都市下京区)の七代了源の舎弟了念(一説に弟)が正慶元年(一三三二)に伊庭に至り、翌年に廃寺状態の妙楽寺を再建したことに始まり、本寺仏光寺の同格別殿となる。中興の了念以降は、了空(明徳三年没)・性空(文安元年没)・性正(応仁二年没)・性円(明応四年没)・了也(永禄六年没)・正信(慶長一七年没)・正尊(明暦三年没)と続く(「妙楽寺中興開基了念上人伝記」「当山系図来由写」龍谷大学蔵転写本)


妙楽寺
みようらくじ

[現在地名]小浜市野代

聖谷ひじりだにの西側山裾にある。高野山真言宗。山号岩屋山、本尊千手観音(木造立像、国指定重要文化財)

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔開創伝承〕

創建年代は不詳だが、寺蔵の九条兼孝筆の妙楽寺縁起によれば、養老三年(七一九)に行基がこの山にきて、長さ一寸の千手千眼(観音)像を彫り、三千大千世界の群類を救済しようとした。しかしいまだ機縁は熟しておらず、むなしく七〇余年の星霜を送り、延暦一六年(七九七)弘法大師(空海)が廻国の際、行基が彫った尊像を拝見し、これが天皇の耳に達し、仏閣の造立が企てられた。その間に大聖不動明王が彫られ、大般若経六〇〇巻が書写された。伽藍が完成すると供養のため弥陀の名号が天皇により棟札に記されたという。地神第四の彦火火出見尊の婦神である豊玉姫という神は、いま若狭姫明神と号し、若狭国の鎮守二宮のことである。この神は少女の姿であらわれ、毎日きて空海に奉仕したという。ある時新たに書写された般若経を強く望んだので、空海はこの少女が明神の化現したものであることを知った。


妙楽寺
みようらくじ

[現在地名]多摩区長尾三丁目

多摩川に並行して北西から東南へ続く右岸丘陵上に位置し、南に長尾ながお神社・五所ごしよ塚がある。長尾山勝寿院と号し天台宗、本尊は阿弥陀如来。「風土記稿」には「妙覚寺」とみえる。当寺は「吾妻鏡」にみえる威光いこう寺の旧跡と伝え、昭和五三年(一九七八)境内薬師堂の薬師如来脇侍日光菩薩像解体修理の際、その胎内から「武州立花郡大田郷 長尾山威光寺(中略)天文十四稔九月十五日」の墨書銘が発見され、天文一四年(一五四五)における威光寺の存在が確認されたが、同寺から妙楽寺への継承関係などは不明。


妙楽寺
みようらくじ

[現在地名]豊岡市妙楽寺

見手山みてやま丘陵東麓にある。末代山と号し、本尊は薬師如来、高野山真言宗。寺域周辺に見手山古墳群があり、経筒三(当寺蔵)室町時代の大錫杖頭や六器および中世石造遺物(但馬文教府蔵)が出土。寛政三年(一七九一)の古義真言宗本末牒では紀州高野山釈迦文しやかもん院末。当時すでに寺中支院一二(不動院・遍照院・観音院・極楽院・弥勒院・地蔵院・大悲院・中性院・大智院・大乗院・心地院・遍智院)は廃絶しており、本坊薬師院のみとなっていた。


妙楽寺
みようらくじ

[現在地名]松阪市山室町 観音谷

山室山やまむろやまと称される地にある。両竜山清安院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。天平年中(七二九―七四九)行基の創建とされ、建暦年中(一二一一―一三)式部少輔兼高によって寺領の寄付などがあったという。江戸期に入り、樹敬じゆきよう寺の僧清誉の中興により、以来浄土宗知恩院末寺となったとされる。本居宣長の奥墓は参道からさらに山道をのぼりつめた頂上近くに方六坪の塚の上に建てられ、宣長自筆の「本居宣長之奥墓」の文字が刻まれている。


妙楽寺
みようらくじ

[現在地名]橋本市東家三丁目

紀ノ川北岸、菖蒲谷しようぶたにへ抜ける道の傍らにある。丹生山薬師院と号し、真言律宗。本尊は薬師如来および大日如来。丹生山薬師院妙楽寺縁起(寺蔵)は弘仁一一年(八二〇)嵯峨天皇の勅願により空海の草創と伝える。北条時頼によって修復され、永仁六年(一二九八)四月日の関東祈祷諸寺注文写(護国寺文書)によれば、現橋本市隅田町下兵庫すだちようしもひようご護国ごこく寺とともに鎌倉幕府の祈祷所となっている。奈良西大寺の叡尊は建治―弘安年間(一二七五―八八)たびたび隅田荘付近で授戒しており(感身学生記)、幕府祈祷寺となったことは、北条氏が深く帰依した叡尊とのかかわりが考えられる。


妙楽寺
みようらくじ

[現在地名]東城町内堀

内堀うつぼりの中央部清水舎しみずやの丘にある。金剛山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。もと菅の徳雲すげのとくうん寺末。「芸藩通志」および寺伝によると、内堀の開拓者名越山城守なる者の娘比丘尼妙観が内堀谷奥のコゴロの地に文永二年(一二六五)に創建し、後に衰退した金剛こんごう寺を、文禄三年(一五九四)徳雲寺八世の天庵(大奥徹通禅師)が村人の要請で曹洞宗寺院として再興、元和元年(一六一五)現在地に移し、寺号を妙楽寺と改め、金剛の寺号を山号として継承したという。


妙楽寺
みようらくじ

[現在地名]大淀町大字馬佐小字前田

馬佐ばさ集落の中心に位置。戒香山清浄院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。文政元年(一八一八)に始まる過去帳では、天文二一年(一五五二)光誉によって開かれ、当麻たいま(現奈良県當麻町)おくノ院に所属とある。寛保四年(一七四四)の過去帳遺書(寺蔵)では開基不分明、中興造立は天文二〇年とある。


妙楽寺
みようらくじ

[現在地名]川辺町比久見

飛騨川左岸の河岸段丘上の山麓に位置する。法昌山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊聖観音。夢窓疎石が山中の寺洞てらぼらに草庵を結び、永禄年間(一五五八―七〇)に一蓬が現在地に移転し創建。肥田玄蕃允除地、山林制止の書状、天正一七年(一五八九)豊臣秀吉境内除地の朱印状、慶長一六年(一六一一)大久保石見守の証状などがあったが、元和(一六一五―二四)・元禄年間(一六八八―一七〇四)の二度の火災によって古文書類は焼失した。


妙楽寺
みようらくじ

[現在地名]佐久市下塚原

名覚山(古くは明覚山)と号し、真言宗智山派。以前は浅間山真楽寺(現北佐久郡御代田町塩野)の末。

「三代実録」貞観八年(八六六)二月二日条に「以信濃国佐久郡妙楽寺(中略)並預之定額」とある定額寺の跡とされているが、その時の位置は不明。二回の火災のため資料を失っている。


妙楽寺
みようらくじ

[現在地名]宇治田原町郷之口

巌平山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によると開山は天台僧松屋雲峰。雲峰は天禄三年(九七二)没といい、創建の場所は郷之口ごうのくち南堂山なんどうやまの山頂であったという。のち現在地に移転したが、その時期は不詳。元和八年(一六二二)将軍徳川秀忠の命により浄土宗に改宗したという。その折の住僧仕取廓誉参栄を二世とする。


妙楽寺
みようらくじ

[現在地名]小牧市南外山 北浦

誦経山と号し、日蓮宗。本尊は法華経題目木塔。寺の記録によると、文保二年(一三一八)僧日澄が熱田から来て創建した。嘉暦元年(一三二六)正月、日澄自ら八幡大菩薩の像を刻み、また法華八幡宮の扁額を認めるとともに、宗門守護のため隣地に八幡宮を勧請した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「妙楽寺」の解説

妙楽寺

福井県小浜市にある高野山真言宗の寺院。鎌倉時代初期に建てられたとされる本堂は国の重要文化財に指定されている。

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世界大百科事典(旧版)内の妙楽寺の言及

【談山神社】より

…669年(天智8)没した鎌足は摂津国阿(安)威山(現,大阪府茨木市)に葬られたが,入唐中の長男定慧(恵)が帰朝後,弟の不比等と相談して多武峰に改葬,十三重塔を建てた。ついで堂を建て妙楽寺と称したのを草創とし,701年(大宝1)近江の彫匠高男丸の造った鎌足の木像を安置する殿舎を建て,聖霊院と号し,両者を多武峯寺と総称した。以後藤原氏一門のみならず朝野の崇敬をうけたが,妙楽寺と聖霊院の対立を防ぐため,926年(延長4)醍醐天皇より談峰権現の神号を,のち後花園天皇より談山明神の神号を賜った。…

【多武峰】より

…多武峰が一躍著名となるのは,藤原鎌足の墓所が営まれたことによってである。鎌足の子の僧定恵(じようえ)は,678年(天武7)ころ(異説もある)亡父の遺骸を摂津国安威(あい)山から当山に移して十三重塔婆(大織冠廟)を建立したといわれ,ついで塔の南に3間四面の堂を建てて妙楽寺と号し,さらに塔の東に方3丈の聖霊院を建てて鎌足の木像を安置したという(《多武峯縁起》《多武峯略記》)。藤原氏の発展とともに寺観が整えられ,寺領荘園の設定もすすめられた。…

【藤原鎌足】より

…《談峯記》によると,定恵和尚が阿威山から談峯(多武峰)へ改葬して,墓上に十三重塔を建て,その東に御殿を造り,父鎌足の霊像を安んじたのが聖霊院の始まりとされる。後に聖霊院が改造され,妙楽寺と称されたが,この寺は藤原氏の祖神として,鎌足の聖霊をまつる聖地となり,中世まで事があるとその墓が鳴動し,尊像が破裂すると信じられた。また興福寺中金堂の本尊は,鎌足が蘇我入鹿誅伐のために発願したと伝える(《興福寺濫觴記》)。…

※「妙楽寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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