木地山村
きじやまむら
[現在地名]三朝町木地山
加谷村の東、加谷川上流に位置する。中央を津山往来が通り、東の栗祖村の集落入口付近で南に向かい人形仙越に至る。拝領高二石余。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高八石余、竈数一三。山神・荒神があり、人形仙を越え、作州才原村(現岡山県上齋原村)へ二里半などとある。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によれば朱高二石余、高一〇石余、うち畑高二石余。免三ツ二分、倉吉御蔵納。無役所で男四五・女三八、産土神は山神。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二二石余、竈数二五。明治三年(一八七〇)当時は山中につき収納御免とされていた(在方諸事控)。明暦年間(一六五五―五八)には地内に人形仙番所が設けられていたが(在方御法度)、寛文四年(一六六四)に久原番所に統合された。
穴鴨村安田家によって木地山集落の北東の能谷、中古屋集落の南の今井谷を中心に鉄山経営が行われた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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