木島郷・木島庄(読み)きのしまごう・きのしまのしよう

日本歴史地名大系 「木島郷・木島庄」の解説

木島郷・木島庄
きのしまごう・きのしまのしよう

和名抄和泉郡一〇郷の一つ木島郷の地に存在した中世の郷および庄園。この地域は和泉郡から南郡が分置されると南郡に属した。その範囲は津田つだ川流域と近木こぎ川上・中流域と海岸平野部からなり、現貝塚市北東半とそれに接続する現岸和田市土生はぶ河合かわいに及んでいたと推定される。

鎌倉時代の木島郷は郷内の水間みずま寺免田が「国司進止」といわれたように(嘉禄三年一〇月日「和泉国司庁宣案」井手家文書)、和泉国衙領の公郷で、馬場ばば麻生あそう土生などの村からなり、それぞれ地頭が置かれていた。建長元年(一二四九)六月頃、土生村地頭平左衛門入道なる者がおり、その代官阿念が同村の田数注進状を提出している(同年六月二八日「木島郷土生度田数注文案」・正和元年九月九日「六波羅御教書」久米田寺文書)。木島庄については、宝治二年(一二四八)一二月の関東下知状(同文書)に、「木島新庄」「木島郷被庄号」の文言があるのが初見であり、木島庄の立庄に伴って同郷内にあった久米田くめだ(現岸和田市)免田三町余が国領として収公されているが、立庄の事情は明らかでない。木島庄は上下(上方・下方)に分れ、その地頭職はいずれも北条氏一門の得宗領であったが(暦応四年九月一五日「足利尊氏下文写」今川家古文書)、元弘三年(一三三三)八月二日の後醍醐天皇綸旨(丹生文書)には、「和泉国木島庄地頭職慶宗房仙算跡」とあり、これが高野山鎮守丹生にう社神主に宛行われている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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