本木村(読み)もとぎむら

日本歴史地名大系 「本木村」の解説

本木村
もとぎむら

[現在地名]福間町本木

西山にしやま山系の北端にあたる本木山(二六八・五メートル)から西斜面に位置する。西は内殿うちどの村、南東は糟屋かすや薦野こもの(現古賀市)。村内を水源とする本木川に沿って耕地が広がる。東部に枝村の河内こうち村がある(続風土記)。元木村とも記される(正保郷帳)。安楽寺草創日記の満願まんがん院の康和三年(一一〇一)の項に本木別府がみえる。「続風土記拾遺」によると、本木の地名は当地の天満宮の楠で大日如来像三体を彫像し、根本に近い部分で作った像を安置したことによるという。太宰府天満宮との関係を示すものである。「訂正宗像大宮司系譜」には、大治五年(一一三〇)二月九日大宮司宗像氏平が本木・内殿を宗像社に寄進したとある。建久二年(一一九一)八月一日源頼朝は鎮西奉行天野遠景に命じ、前大宮司宗像氏家が訴えていた宗像社神領内本木・内殿等地頭職の高房知行を停止させ、氏家に領掌させている(「関東御教書」宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文一)


本木村
もときむら

[現在地名]足立区本木一―二丁目・本木北町もとききたまち本木西町もときにしまち本木南町もときみなみまち本木東町もときひがしまちおうぎ一―三丁目・関原せきばら一―三丁目など

興野おきの村の南に位置し、東は梅田うめだ村、西は宮城みやぎ村。中世淵江ふちえ郷の中心地であったという(「風土記稿」など)。田園簿に村名がみえ、田一千二二六石余・畑四一一石余、ほかに見取場として田一町八反歩・畑三町五反歩があり、野銭永四貫五六文、吉祥きちじよう院領五石。元禄郷帳では高一千四九一石余。検地は元禄八年(一六九五)の総検地のほか、新田検地が元文四年(一七三九)、延享元年(一七四四)、寛延元年(一七四八)、宝暦三年(一七五三)、寛政九年(一七九七)に実施されている。


本木村
もときむら

[現在地名]山形市元木もとき南二番町みなみにばんちよう鳥居とりいおか青田あおた一丁目・同四丁目・あさひおか・元木一―三丁目・三つ江みつえ白山はくさん

青田村の西に位置し、瀧山りゆうざん川下流沿岸平地に立地。最上氏改易後は山形藩領、寛延元年(一七四八)頃から幕府領(「関根村御用留」鈴木文書)、寛政二年(一七九〇)常陸土浦藩領となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高四一二石余。正保郷帳では田三四八石余・畑六三石余。宝永七年(一七一〇)頃の村々大概帳(横山文書)によれば高四三一石余、反別田一六町四反余・畑七町四反余、人数一五八、馬一三。小物成は銭四貫一九八文。


本木村
もとぎむら

[現在地名]大和村本木

雨引あまびき山の南麓にあり、南を谷部やべ川が流れる。西は阿部田あべた村、南は大曾根おおぞね村。中世は真壁氏が支配し、寛喜元年(一二二九)七月一九日の将軍藤原頼経袖判下文(真壁文書)に本木郷の名がある。真壁氏の庶子家と思われる本木氏が一時所領の一部を有したらしく、真壁氏本宗の当家大系図(真壁博氏蔵)に本木駿河守家幹の名がみえる。

慶長七年(一六〇二)真壁氏は秋田に移り、同一一年浅野氏領、元和八年(一六二二)浅野氏笠間移封に伴い笠間藩領となり、「寛文朱印留」に村名が載る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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