朝日日本歴史人物事典 「本橋次左衛門」の解説
本橋次左衛門
生年:生年不詳
明治時代の百姓一揆の指導者,義民。常陸国(茨城県)那珂郡小舟村の百姓であったが,地租改正による百姓の窮乏をみかねて大町甚左衛門らと蜂起を決意,一揆の組織を作りあげた。明治9(1876)年12月6日,増井村百姓らの水戸出訴の報に接し,本橋が水戸に向かう間に,上小瀬村で百姓ら数百人が蜂起,8日に警官を殺害し,9日には水戸に向かい,途中の戸長宅を襲撃した。大町は増井村で決起をうながし,10日に阿波山上神社に結集した一揆勢は2000人余になった。その後石塚村十万原で県の鎮圧隊と銃撃戦となり,一揆側は17人の死者を出して撤退,さらに大町らが県の密命を受けた囚人らに暗殺されて組織は壊滅した。明治11年8月11日に,本橋が斬罪,岡崎新八,小林彦衛門が絞首刑になったほか多数が処罰された。これを那珂暴動・地租改正反対一揆という。本橋は義民として祭られ,明治29年に本橋政国之碑(緒川村小舟)が建立されたほか,昭和30(1955)年には義民堂(緒川村上小瀬),同50年に小瀬義民顕彰碑(小瀬村中央グランド)などが建立された。<参考文献>高井良水『小瀬義民の顛末』,小瀬義民顕彰会『小瀬一揆百周年記念出版・義民顕彰録』,高橋裕文『那珂郡農民一揆』上下
(斎藤善之)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報