チャイコフスキー(読み)ちゃいこふすきー(英語表記)Николай Васильевич Чайковский/Nikolay Vasil'evich Chaykovskiy

日本大百科全書(ニッポニカ) 「チャイコフスキー」の意味・わかりやすい解説

チャイコフスキー(Pyotr Il'ich Chaykovskiy)
ちゃいこふすきー
Пётр Ильич Чайковский/Pyotr Il'ich Chaykovskiy
(1840―1893)

19世紀ロシアの代表的作曲家。民族主義的な傾向の強いロシア国民楽派のなかにあって、西欧の伝統に根ざした手法を用い、民族的素材をより洗練された形で活用して多くの名作を生み出した。なかでも交響曲、協奏曲は今日の演奏会のスタンダード・ナンバーとして多くの聴衆を獲得し、バレエ音楽も古典としての確固たる位置を占めている。

[横原千史]

生涯と作品

1840年5月7日(ロシア暦4月25日)ウラル山脈の西麓(せいろく)、カマ川流域のボトキンスクに生まれる。父イリヤ・ペトロビチは下級貴族・鉱山技師で、この地方の監督官を務めていた。母アレクサンドラ・アンドレエブナ(旧姓アシエ)は二度目の妻で、フランス系。家庭には兄と姉、妹と3人の弟があり、歌、ピアノ、室内楽が楽しまれた。4歳からフランス語、ドイツ語を習い、マスターした。フランス人の家庭教師ファニー・デュルバクは、彼の感受性が鋭く神経質な性格を「ガラスのような子」と表現している。5歳からピアノを始め、たちまち田舎(いなか)教師の腕を追い越す。一時ペテルブルグで都会生活を味わうが、父の仕事の関係ですぐウラル地方へ戻る。幼児期を、いわゆる民謡の宝庫のなかで育ったことは見逃せない。50年ペテルブルグの法律学校予科に入学、この前後にグリンカモーツァルトのオペラを見て感動し、とりわけ『ドン・ジョバンニ』は生涯忘れられない印象を残した。52年には家族もペテルブルグに移住するが、54年6月、最愛の母を失う。その落胆から彼を救ったのは音楽であり、翌年にはドイツからきていた新進のピアノ奏者・作曲家のR・キュンディンガー(1832―1913)についてピアノと音楽理論を学び始めた。

 1859年法律学校を卒業、法務省の課長補佐として役人生活に入るが、階級差、汚職、社会矛盾のなかで公明正大に仕事を続けることは困難であり、しだいに興味を失ってゆく。61年アントン・ルビンシュテインを中心とするロシア音楽協会が開設した音楽教室に入学。翌年ペテルブルグ音楽院となるこの教室で才能を認められ、本格的に音楽の勉強に打ち込み、63年には法務省を辞職する。音楽院の課題の序曲『雷雨』(1864)は、そのロマン主義的革新性から保守的教師たちの反感を買う。しかし、のちに評論家で終生の親友となるG・A・ラロシュ(1845―1904)からは高い評価を受けた。

 1866年音楽院を一等で卒業し、アントンの弟ニコライ・ルビンシュテインの開いたモスクワ音楽教室(同年9月音楽院となる)の教師として赴任した。モスクワでは理論家カシュキン、劇作家オストロフスキー、出版商ユルゲンソンらの知遇を得る。初めて大作に取り組み、交響曲第一番「冬の日の幻想」(1866、改訂1874)、オストロフスキーの戯曲によるオペラ『地方長官』(1868)を完成させる。68年からは評論活動も始め、それを契機にペテルブルグのバラキレフをはじめとする五人組との交友も始まる。同年、イタリア・オペラ団巡業のプリマドンナ、デジレ・アルトーと恋愛し、婚約までするが、結婚には至らなかった。この間に、幻想的序曲『ロミオとジュリエット』(1869、改訂1870.1880)、オペラ『ウンディーネ』(1869)、『ただあこがれを知る人だけが』を含む6つの歌曲(作品6、1869)、第二楽章に有名な「アンダンテカンタービレ」を含む弦楽四重奏曲第一番(1871)、オペラ『親衛兵(オプリーチニク)』(1872)、交響曲第二番(1872、改訂1879)、劇音楽『雪娘』(1873)、幻想序曲『テンペスト』(1873)、オペラ『鍛冶(かじ)屋ワクーラ』(1874)といった国民主義的な初期の名作が生み出された。

 1870年代後半には次々と傑作が生まれ、創作の最初の頂点を迎える。ピアノ協奏曲第一番(1875)、交響曲第三番(1875)、バレエ『白鳥の湖』(1876)、ピアノ曲集『四季』(1876)、『ロココ風主題による変奏曲』(1875、チェロとオーケストラによる)、バイオリン協奏曲(1878)が有名であるが、とりわけ、交響曲第四番(1877)とオペラ『エウゲーニイ・オネーギン』(1878)は形式・内容ともに充実していて生涯の傑作といえよう。この時期は転換期でもあり、76年からは富裕な未亡人ナジェージダ・フォン・メック(1831―94)との文通のみの交際が始まり、彼女から多額の年金を受けるようになる(90年末まで)。翌年夏、かつての教え子で、激しい愛の告白を受けたアントニーナ・ミリューコワ(1849―1917)との結婚は失敗に終わり、ノイローゼ、自殺未遂にまで至った。女性を理想化し、精神的にしか愛せないためである。その理想的女性像は亡き母のおもかげに由来し、彼のオペラやバレエのヒロインのなかに昇華されて現れる。女性を愛したいのだが愛せない葛藤(かっとう)は、彼をしばしば同性愛的な性向に導き、第四番から第六番の三大交響曲にみられる人生の「宿命」の主題にもなる。

 経済的安定とともに1878年に音楽院の教壇も退き、作曲に専念できるようになるが、創作力はしだいに陰りをみせてくる。それでも苦心しながら誠実に作曲を続け、オペラ『オルレアンの少女』(1879)、『イタリア奇想曲』(1880)、弦楽セレナード(1880)、序曲『1812年』(1880)、ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」(1882)、無伴奏合唱曲『晩課』(1882)、オペラ『マゼッパ』(1883)を世に送り出した。

 1885年、西欧とロシアの避暑地を放浪する生活をやめ、クリン(モスクワの北西)近くのマイダノボに初めて自分の家をもった(92年にはクリンに移り住む)。ここで苦労のすえ完成した交響曲「マンフレッド」(1885)を契機にしだいに創作力を取り戻し、二つのオペラ『チェレビチキ』(1885)と『魔女』(1887)を経て、交響曲第五番(1888)から創作の最後の頂点を迎える。87年、自作『チェレビチキ』の初演で偶然指揮棒を手にすることになり、指揮者としての才能も明らかになる。そして翌シーズンから、ヨーロッパ各地のオーケストラで自作を指揮して大好評を博し、ブラームスグリーグ、マーラーらと会う。さらに91年にはアメリカに招かれ、カーネギー・ホールの杮落(こけらおと)しに出演して大成功を収め、翌年にはパリ芸術アカデミー会員に選ばれ、93年にはケンブリッジ大学から音楽名誉博士号を贈られる。この世俗的名声の頂点のなかで、フォン・メック未亡人からの絶縁状、愛する妹アレクサンドラの死が、彼の内面に暗い影を落とす。しかし創作面では、バレエ『眠れる森の美女』(1889)、オペラ『スペードの女王』(1890)、劇音楽『ハムレット』(1891)、オペラ『イオランタ』(1891)、バレエ『くるみ割り人形』(1892)、交響曲第六番「悲愴(ひそう)」(1893)と、いずれも円熟した手法による傑作を次々に生み出している。

 このような絶好調も、突然の死で打ち切られる。死因は、一般にコレラによるとされてきたが、謎(なぞ)に包まれていた。しかし、近年、新事実の公表とともに自殺説が有力になりつつある。その一つによると、晩年ある公爵の甥(おい)との同性愛が発覚し、裁判沙汰(ざた)になるところを立法府の高官が止め、秘密弾劾裁判が行われ、名誉を守るために自殺するべく判決が下された、というのである。さらに資料の検討が必要ではあるが、十分説得力のある説といえよう。こうして1893年11月6日(ロシア暦10月25日)「悲愴」初演の9日後、ペテルブルグで没。53歳。

[横原千史]

作風

チャイコフスキーの作品は、ラフマニノフ、ショスタコビチをはじめとして、マーラー、バルトーク、ストラビンスキーなどに影響を及ぼし、さらにその語法は20世紀の映画音楽、ポピュラー音楽の分野にも幅広く浸透している。作品の影響史は今後注目すべき研究課題の一つである。

 一般に彼の作品は、ロシアの大地に根ざした叙情的で豊かな旋律をちりばめ、それをもっとも効果的に生かす独自の形式と管弦楽法で巧みに構成されている。ロシアの祭典を思わせる荒々しく執拗(しつよう)なクライマックスさえも、その対照としての繊細な叙情性を際だたせるのに役だっている。交響的作品にみられるその種の執拗さが、彼を毛嫌いする聴衆を生み出していることも事実であるが、今後は作品研究の観点から、また、オペラや声楽曲を含めたチャイコフスキーの全体像の観点からの見直しが必要であろう。

 オペラや声楽曲などの楽種は多くの傑作を含んでいるにもかかわらず、言語上の制約からごく一部を除いて、ロシア以外では残念ながらほとんど演奏されていない。研究はクリンの国立チャイコフスキー記念館が名実ともに中心となり、各国、とりわけイギリスで盛んに行われている。今後、演奏、受容、研究の各分野でのチャイコフスキーの全体像の再評価、再検討が大いに期待される。

[横原千史]

『ギー・エリスマン著、店村新次訳『チャイコフスキー』(1971・音楽之友社)』『ジョン・ウォーラック著、森田稔訳『チャイコフスキー 交響曲・協奏曲』(1981・日本楽譜出版社)』『寺西春雄著『チャイコフスキー』(1984・音楽之友社)』『森田稔著『チャイコフスキイ』(新潮文庫)』



チャイコフスキー(年譜)
ちゃいこふすきーねんぷ

1840 5月7日、ボトキンスクにて、イリヤ・ペトロビチの次男として誕生
1852 ペテルブルグの法律学校本科に入学
1854 6月、母アレクサンドラ・アンドレエブナ死去。このころから音楽に専心する
1859 法律学校卒業。法務省の九等文官になる
1862 ペテルブルグ音楽院に入学
1863 5月13日、法務省を辞職
1866 ペテルブルグ音楽院卒業。交響曲第1番「冬の日の幻想」。9月、モスクワ音楽院の教授になる
1868 批評活動開始。バラキレフ率いる作曲家集団「力強い一団」と交友し始める
1869 オペラ『ウンディーネ』。幻想的序曲『ロメオとジュリエット』
1871 弦楽四重奏曲第1番
1873 劇音楽『雪娘』。幻想序曲『テンペスト』
1875 ピアノ協奏曲第1番。交響曲第3番
1876 バレエ『白鳥の湖』。12月30日、フォン・メック夫人との文通が始まる
1877 7月18日、教え子アントニーナと結婚。交響曲第4番
1878 オペラ『エウゲーニー・オネーギン』。バイオリン協奏曲。歌曲集(作品38)。モスクワ音楽院を辞職
1879 オペラ『オルレアンの少女』
1880 弦楽セレナード。序曲『1812年』
1882 N・ルビンシュテインの死に際して、ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」
1883 戴冠式カンタータ『モスクワ』。オペラ『マゼッパ』
1884 3月、聖ウラジーミル勲章を受章
1885 2月、マイダノボ移転。オペラ『チェレビチキ』。交響曲「マンフレッド」
1887 オペラ『魔女』。管弦楽組曲第4番「モーツァルティアーナ」。指揮者としてヨーロッパへ演奏旅行に
1888 交響曲第5番
1889 第2回ヨーロッパ演奏旅行。バレエ『眠れる森の美女』
1890 オペラ『スペードの女王』
1891 5月5日、カーネギー・ホールの柿(こけら)落しに出演。オペラ『イオランタ』
1892 バレエ『くるみ割り人形』。クリン転居
1893 6月24日、ケンブリッジ大学から音楽名誉博士号受領。8月、交響曲第6番「悲愴」。10月28日、同曲をペテルブルグで自ら指揮初演。11月6日午前3時、ペテルブルグの弟宅で死去。53歳


チャイコフスキー(Nikolay Vasil'evich Chaykovskiy)
ちゃいこふすきー
Николай Васильевич Чайковский/Nikolay Vasil'evich Chaykovskiy
(1850―1926)

ロシアの革命家。1872年ペテルブルグ大学を卒業。在学中から学生運動に参加し、人民主義の革命的結社「チャイコフスキー派」の合法面の代表となったが、実はこの派の創設者でも指導者でもなかった。同派の解体後、イギリス、ついでアメリカに亡命。1905年の革命時に帰国し、一時「SR(エスエル)」(社会革命党)に加入した。17年の革命後は反ボリシェビキの陣営にたち、デニキン将軍の「南ロシア政府」に参加したが、同政府の崩壊後はロンドンに亡命した。

[外川継男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チャイコフスキー」の意味・わかりやすい解説

チャイコフスキー
Chaikovskii, Pëtr Il'ich

[生]1840.5.7. ボトキンスク
[没]1893.11.6. サンクトペテルブルグ
ロシアの作曲家。サンクトペテルブルグの法律学校に学び,法務省に就職したが,1862年ロシア音楽協会の音楽教室 (のちに音楽院) に入り,アントン・G.ルビンシテインらに師事し,ヨーロッパ音楽の伝統的手法を学んだ。卒業後モスクワ音楽院で教鞭をとりながら,国民楽派的傾向の作品を書いた。1875年『ピアノ協奏曲第1番』を作曲,その後バレエ音楽『白鳥の湖』,オペラ『エブゲーニー・オネーギン』などを発表。ナジェジダ・フォン・メックの資金援助を受け,ヨーロッパ各地に旅行,『イタリア奇想曲』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』を完成。1893年『交響曲第6番』を初演,その 1週間後にコレラに罹患して他界した。のちに『交響曲第6番』は『悲愴』と名づけられた。

チャイコフスキー
Chaikovskii

ロシア中西部,ペルミ地方の都市。ペルミの南西約 200kmにあり,カマ川中流部をなすボトキンスク人造湖南端部に臨む。ボトキンスクダムの建設 (1955) に伴ってつくられ,1962年市となった。絹織物,木材,食肉の各コンビナート,船舶修理工場,合成ゴム工場などがある。市名は作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーを記念したもの。カザンエカテリンブルグを結ぶ幹線鉄道から分岐する支線の終点。人口 8万8300 (1991推計) 。

チャイコフスキー
Chaikovskii, Nikolai Vasil'evich

[生]1850.12.26. ビャトゥカ
[没]1926.4.30. ハーロー
ロシアの社会主義者。 1869年ペテルブルグ大学に在学中,ナロードニキのサークルに参加,P.A.クロポトキンらとともに社会主義の漸進主義的啓蒙活動を行なった。このサークルは,彼の名を取って「チャイコフスキー団」と呼ばれた。その後,その思想を宗教的人間主義の立場へと転換し,75年アメリカに亡命。 1905年帰国して社会革命党右派に参加しその指導者となった。 17年十月革命に際してボルシェビキに反対し,18年アルハンゲリスクに反革命北ロシア臨時政府をつくったが失敗,19年パリに亡命した。

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