地租改正反対一揆(読み)ちそかいせいはんたいいっき

改訂新版 世界大百科事典 「地租改正反対一揆」の意味・わかりやすい解説

地租改正反対一揆 (ちそかいせいはんたいいっき)

明治政府は1873年以来,従来の物納貢租の制度を改め,全国画一の定率金納の地租制度を施行したが,これに対して各地の農民は反対闘争を起こした。この闘争は,政府・府県による地租改正実施の進行事情,実施の段階,実施方法の差異と,各地域の政治的・経済的諸条件によって異なった形態と特徴をあらわす。ここでは改租の段階に応じて反対闘争に四つの段階を設けて記述する。

 第1段階の闘争は,(1)地押丈量・地券名請をめぐる対立,(2)地租改正入費の負担,(3)地租徴収にいたるまでの石代納制をめぐる対立などが原因となっている。表に示した反対闘争のうち,(1)(2)(3)(4)(5)(8)などが石代納制に関連しており,(6)(7)は地租改正入費等に,(9)は地券名請に関連したものである。このうち(2)(3)(4)(5)はいずれも1876年に起こり,直接の原因は高い石代納米価に反対したものであるが,同時に当時進行中の地租改正事業と密接に関連し,高い等級,収穫米,地価への反対をふまえている。その意味では次の第2段階の反対闘争に連なるものである。なお,この段階の反対闘争が多く一揆形態をとっていることも大きな特徴で,狭義の地租改正反対一揆の多くは第1段階の闘争に属するのである。

 第2段階の反対闘争は地位等級・収穫・地価決定をめぐる反対闘争である。そしてこの反対闘争こそ,公平画一の名のもとに全国的規模で旧貢租の水準を継承し,富国強兵殖産興業等のための財源を確保しようとする明治政府と,農民余剰を確保(民富の形成)して農民みずからがブルジョア的発展を図ろうとする農民諸階層との,地租改正をめぐる最も基本的な矛盾・対立より発した闘争である。表の(11)~(19)の闘争等がこれにあたる。これらの闘争は,(15)のように(5)に巻き込まれて一揆に発展したものや,(14)(16)のように〈一揆寸前〉の形態にまで発展したものもあるが,大部分は理論的・合法的手段をもって闘争したのである。とくにこの期の闘争は,(19)のように反対闘争の過程で自由民権運動と結合して立志社の指導をうけ,(17)(19)のように反対闘争を指導した岡田良一郎杉田定一のように後年自由民権運動に活躍した人物を輩出するのである。

 第3段階の闘争は山林原野の官民有区分・地租改正をめぐる対立より発している。(10)の群馬県入会地騒擾(そうじよう)は1881年1月に政府が入会地大野一体を官有化したことに反対し,同年3月農民約3万人が同郡福島村金剛寺に武装集結した事件である。武装蜂起にいたらないまでも官有地化の強行が山梨,青森,秋田および四国,九州の各地にみられるように,その後長く官林の濫伐・盗伐となるのである。

 第4段階の闘争は,ほぼ地租改正の完了とともに起こる。重租地の無代上地運動,修正地価運動,地主の小作料引上げと小作人の反対闘争などである。地租改正反対闘争は,農民内部の複雑な階層関係を反映して世直し型の闘争をも含むこと,1府県の範囲をこえて連係できなかったこと等の限界をもちながら,日本農民が各地で大規模な一揆型闘争と非一揆型(理論)闘争の両面をもって政府に対決した画期的意義をもっている。これに対し政府は強圧のための法整備や,軍隊・警察・旧士族等を動員して弾圧するとともに,減租の詔勅公布等譲歩をも行いつつ,地租改正事業の完遂を図ったのである。
地租改正
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「地租改正反対一揆」の意味・わかりやすい解説

地租改正反対一揆
ちそかいせいはんたいいっき

1873年(明治6)7月から始められた地租改正に対する反対一揆。旧貢租と変わらぬ高額の予定地租を上から強力的に押し付けていく形で実施された地租改正は、農民の間に広範な不満を生み出した。そして増租となった地域を中心に、全国各地でさまざまな抵抗とさらには反対一揆を引き起こし、その件数は50件を超えた。

 この地租改正反対一揆は、次の二つの類型=段階に分けられる。第一は、打毀(うちこわし)、焼打ちといった激烈な展開を特徴とするもので、いずれも地租改正事業の初期段階(1876)に発生した。それは、和歌山県那賀(なが)・日高両郡の一揆、三重・愛知・岐阜・堺(さかい)(現奈良)の四県に広がった伊勢(いせ)暴動、茨城県那珂(なか)・真壁(まかべ)両郡の一揆などに代表される。これらの一揆は、政府に大きな衝撃を与え、地租率の引下げ(地価の3%→2.5%)という譲歩をかちえた。しかし、この類型は組織形態、要求の質のうえで種々の限界をもち、地租改正反対一揆の初期的形態=段階をなすものであった。それに対して第二は、激烈な形態をとらず、県・政府(地租改正事務局)を相手とする長期にわたる粘り強い反対運動の形態をとったことを特徴とする。これは、新潟県蒲原(かんばら)郡、石川県(現福井県)越前(えちぜん)七郡、愛知県春日井(かすがい)郡、筑摩(ちくま)県(現長野県)伊那(いな)郡の一揆などに代表される。組織形態、要求の質などの点において、この類型こそが地租改正反対一揆の本来的形態=段階をなすものであった。すなわち、これらの一揆は、地租改正事業の本格的な進展段階において、それへの全面的な対決として展開したからである。組織形態の面では、高額地租(増租)の押し付けに対する反対の要求を軸に、地主を含めた広範な農民の結集によって闘われた。また要求の質の面では、地租改正への反対が、結果としての増租への反対を軸としながらも、単にそれにとどまらず、地価決定過程や地価算定方式の不当性に対する批判など、地租改正そのものへの批判に基礎づけられていた。以上の特質から、地租改正反対一揆は、旧来の農民一揆の限界を乗り越えて発展する契機を含むものであった。そしてそれは、農民の政治的意識を大きく揺り動かすことによって、自由民権運動へ連係発展するなど、自由民権運動の全国的な展開と高揚への基盤を形づくった。こうして地租改正反対一揆は、孤立分散的な農民一揆から全国的政治闘争である自由民権運動への過渡としての位置を占めるものとなった。

[近藤哲生]

『土屋喬雄・小野道雄編『明治初年農民騒擾録』(1953・勁草書房)』『有元正雄著『地租改正と農民闘争』(1968・新生社)』『大江志乃夫著『明治国家の成立』(1959・ミネルヴァ書房)』『大槻弘著『越前自由民権運動の研究』(1980・法律文化社)』『近藤哲生著『地租改正の研究』(1967・未来社)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「地租改正反対一揆」の解説

地租改正反対一揆
ちそかいせいはんたいいっき

1873年(明治6)以降実施された地租改正作業に対して,一揆の形態をもって抵抗した反対運動。ピークは76年で,茨城・三重・和歌山などの各県で一揆が発生した。いずれも多数の農民が参加し,政府に地租改正事業遂行への大きな危機感を抱かせ,翌年1月の減租詔勅を引き出した。これらの一揆は,76年の米価下落にともなう石代納(こくだいのう)の困難をきっかけとして発生しており,地位等級決定や地価算定に対する反対が主因ではなく,しばしば区・戸長への攻撃を含む新政反対一揆としての側面ももっていた。他方,石川県(現,福井県)越前7郡,愛知県春日井郡などでは一揆形態をとらない地租改正事業そのものへの反対運動が展開された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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