本部間切
むとうぶまぎり
国頭方の中央西部、本部半島の一角を占める。東は今帰仁間切、南は名護間切で、北と西は海に面し、西方海上に浮ぶ瀬底島・水納島を含む。現在の本部町域にあたる。国頭方九間切の一で、方音でムトゥブという。里積記によると、首里城から渡久地村の間切番所まで八里二五町余。尚質王一九年(一六六六)に今帰仁間切から分離して成立。当初は伊野波間切と称していたが、翌年本部間切と改称する。古琉球期は今帰仁間切のうちで、現本部町辺名地の仲村家に伝わる辞令書には今帰仁間切のうちとして、のちに当間切に含まれた辺名地の目差職、具志川のノロ職、謝花の掟などの役職がみえる。「球陽」尚質王一九年条によると、今帰仁郡邑(間切・村)は、三〇余邑からなり、田地はなはだ広く、人民も多いので、そのうちの一二邑を分けて伊野波郡(間切)とし、尚弘信(本部王子朝平)と毛泰永(伊野波親方盛紀)に与えたという。のち七邑を新設して計一九邑とし、同二〇年本部郡(間切)と改名したとある。今帰仁間切から分れたときの一二村は瀬底・崎本部・健堅・辺名地・伊野波・天底・具志川・浦崎・謝花・嘉津宇・具志堅・備瀬の諸村(天底村のみ現今帰仁村)、新設された邑は石嘉波・並里・満名・伊豆味・渡久地・真部・小浜の七邑で、合せて一九邑となった(南島風土記)。尚敬王七年(一七一九)に伊豆味村付近にあった天底村が今帰仁間切地内に移村したため、以後は一八村となった(球陽)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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