本酉島新田
ほんとりしましんでん
[現在地名]此花区酉島一―六丁目
西流する伝法川と正蓮寺川の間にあり、東は秀野新田。もとは南酉島新田・北酉島新田(現西淀川区)とともに酉島新田と称された。酉島新田は寛文一二年(一六七二)大坂の多羅尾七郎右衛門が開発を手掛けたが、中島大水道の海表樋門をふさぐ位置にあるため、天和年間(一六八一―八四)開発が禁じられ没収された。しかし貞享元年(一六八四)の安治川開削によって排水がよくなったために再び多羅尾氏に還付、その後多羅尾氏の開発が進められ、元禄一五年(一七〇二)検地を受け高一八七石余の新田となった(西成郡史)。その後も開発が続けられ、天保郷帳では三四五石余となっている。しかし天保年間(一八三〇―四四)に酉島新田は本酉島新田および南酉島新田・北酉島新田に分れたようで、天保一〇年大坂湊口新田細見図ではそれぞれ分筆され石高が示されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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