朴平意(読み)ぼく・へいい

朝日日本歴史人物事典 「朴平意」の解説

朴平意

没年寛永1(1624)
生年永禄2(1559)
江戸初期の薩摩(鹿児島県)苗代川焼の陶工文禄慶長の役に際し朝鮮半島から渡来。朝鮮王朝(李朝)の陶工で,慶長3(1598)年,男女43名で串木野の島平に上陸(『苗代川文書留帳』)。翌年には薩摩焼最初の窯を半円筒形単室傾斜窯(蛇窯)という朝鮮半島の形式で築いている。8年冬,串木野から苗代川に移り,翌年,朴平意が庄屋となり,和名を清右衛門興用と名乗った。同じころ半円筒形単室傾斜窯の元屋敷窯を築く。19年,朴平意・貞用父子は,薩摩で初めて白陶土を発見し,それまでの朝鮮半島の雑器風の「黒もん」しかなかった苗代川で,薩摩焼の高級陶器「白もん」が作られるようになった。

(伊藤嘉章)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「朴平意」の解説

朴平意 ぼく-へいい

1560-1624 朝鮮王朝の陶工。
明宗15年生まれ。文禄(ぶんろく)・慶長の役後,島津義弘にしたがって渡来し,薩摩(さつま)(鹿児島県)日置郡串木野に開窯。慶長8年ごろ同郡苗代川に移住,のち良質の白陶土を発見して白薩摩を創製した。苗代川村初代の庄屋。薩摩苗代川焼の祖。寛永元年5月1日死去。65歳。日本名は清右衛門,興用。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の朴平意の言及

【薩摩焼】より

…この窯からは寛文6年(1666)銘の染付の陶片が出土している。民窯としては,帰化陶工の朴平意がきずいた苗代川(なえしろがわ)窯が東市来町にあり,やはり白釉と黒釉をつかって日常雑具をおもに焼造した。1786年(天明6)になると平佐郷の領主北郷久陣(ほんごうひさつら)の家臣伊地知団右衛門が有田から陶工をまねいて平佐窯をおこし,はじめて磁器を焼き,磁胎にべっこう調の三彩釉をかけた平佐三彩は海外でも人気を博した。…

※「朴平意」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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