日本の城がわかる事典 「伊木山城」の解説 いぎやまじょう【伊木山城】 岐阜県各務原(かがみはら)市にあった戦国時代から安土桃山時代にかけての山城(やまじろ)。恵方山、小仏山あるいは夕暮富士ともよばれてきた木曽川南東岸の独立峰・伊木山(標高173.1m)に築かれていた城郭である。その築城年代、築城者ははっきりしていない。1560年代には、のちに姫路藩池田家の初代筆頭家老となった伊木忠次が城主を務めていたといわれるが、この忠次の動向も諸説あり、くわしいことがわかっていない。一説では、1560年(永禄3)の桶狭間の戦いで東(今川氏)の脅威のなくなった織田信長は、美濃に目を向けた。このとき、国境の長良川を渡って美濃へ侵攻する際、その障害の一つとなっていたのが伊木山城とされている。翌1561年(永禄4)、織田氏は伊木山城を攻めた。この戦いで武功をあげた香川長兵衛忠次は、信長からこの地の地名である伊木の姓と領地を拝領したともいわれ、田原城(愛知県田原市)に移るまで伊木山城を居城としたとされている。もう一つの説は、1563年(永禄6)、織田信長は、本格的な美濃侵攻のため小牧山城(愛知県小牧市)を築城して居城を移し、翌1564年(永禄7)には織田信清の犬山城(愛知県犬山市)を攻め取って尾張を統一し、東美濃への本格侵攻の準備が整った。この美濃侵攻を開始するにあたって、信長は木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に長良川対岸の伊木山城と鵜沼城(各務原市)の攻略を命じたとされるものである。この説に従えば、伊木忠次はこの時点で織田氏に従っていなかったということになる。松倉城(同市)に着陣した藤吉郎(秀吉)は軍を2つに分け、自らは松倉城主の坪内利定らとともに鵜沼城の攻略に向かい、伊木山城には配下の前野将右衛門長康らを向けた。その際、伊木忠次は藤吉郎(秀吉)の調略に応じ、織田氏に帰順したともいわれる。ともかく、織田氏に従った伊木忠次は信長の重臣・池田恒興の配下となり、その後さまざまな経緯を経て、1590年(天正18)の豊臣秀吉の田原征伐後、池田輝政(恒興二男)が15万3000石の三河国吉田城主になった際に、忠次は1万5000石(または1万7000石)の田原城主となった。このときに、伊木山城は廃城になったと考えられている。その後、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いののち、輝政は播磨姫路52万石の領主として姫路城(兵庫県姫路市)に入城したが、忠次は姫路藩の筆頭家老として三木城(兵庫県三木市)3万7000石を与えられている。現在、伊木山の山頂付近のかつての城域には、伊木山城の天守台のものとされる石垣や土塁などの一部が残っている。名鉄各務原線鵜沼宿駅から徒歩約15分。主郭があった山頂までは、東麓の各務原市少年自然の家近くからハイキングコースが整備されている。また、伊木山中腹の「伊木の森いこいの広場」まで自動車道が整備されていて、ここから山頂へ至る登山道が延びている。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報