朴沢村
ほおざわむら
[現在地名]泉市朴沢
福岡村の北東、七北田川上流左岸の朴沢川と要害川の中間に位置し、泉ヶ岳山麓の南東部に立地。南西は平坦で他は鷹繋山・蘭山・長倉山などに囲まれる。南東は根白石村、北東は黒川郡宮床村(現大和町)に接し、古くから根白石から宮床への通路であったといわれる。建武元年(一三三四)八月、大河戸隆行は相伝所領山村の当知行地安堵の国宣下賜を申請、国司北畠氏より認められたが、山村のうち「田中村朴沢大夫房跡」などは除くとある(「大河戸隆行申状」朴沢文書)。朴沢系図(同文書)によると、藤原秀郷を祖とする大河戸氏は山村にいて、南北朝内乱の際南朝方にあって功を立てた。しかしその後北朝方に追われている。朴沢氏は大河戸隆行の三男経家が朴沢蔵人と名乗って朴沢に住んだことから始まる。「古城書立之覚」に「平城 東西三十六間、南北十三間 右此城朴沢蔵人ト申者御座候、朴沢九左衛門先祖ニ御座候」とあり、新城の項にも「右此城主同人、右城より取移申候、只今ハ何も百姓共罷在候」とある。
朴沢村
ほおのさわむら
[現在地名]川西町朴沢
犬川上流部にあり、東は奥田村、北は上小松村、西は手ノ子村(現西置賜郡飯豊町)。大永五年(一五二五)一二月二四日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、浜田孫左衛門よりの買地である「下長井之庄朴沢之郷□殿内の主殿在家、四貫四百文之所」が湯村犬松に安堵されている。天文七年(一五三八)の段銭古帳では「十四貫六百五十文 ほうのさハ」とある。同二二年の晴宗公采地下賜録では、「ほうのさハの内」として「きたさハさいけ」「越後のつう路、山中百廿里のあひた惣成敗」が前々のごとく遠藤上野守に安堵され、「とミつかあふミのふん四けん」が片倉修理亮に、との内在家が湯村藤左衛門に下賜されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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