川西町(読み)かわにしまち

日本歴史地名大系 「川西町」の解説

川西町
かわにしまち

面積:一六七・四二平方キロ

米沢盆地西部に位置し、東は高畠たかはた町、西は西置賜郡飯豊いいで町、南は米沢市、北は長井市・南陽市に接する。平野部は標高二一〇メートル前後の高度をもち、南北約一〇キロ・東西約八キロの水田地帯がこの中に含まれる。平野部の西から南にかけて山林丘陵地帯がある。南西部の山地は総面積の約三九パーセントを占め、標高約四〇〇メートル以下の丘陵で、北方になるにつれてしだいに低くなる。鬼面おもの川といぬ川・くろ川が北流し、町域北端でまつ(白川合流点より上流の最上川の呼称)に合流する。町内の水は愛宕あたご山から河井かわい山にかけての狭窄部を通るため、川幅の制限により勾配が著しく緩く、そのため流れが緩やかになっている。気象は盆地性気候で気温の変化が大きく、夏季は乾燥の傾向にあり、冬季は日本海から吹寄せる飯豊山越えの季節風が厳しく、積雪量が多い。山間部は二―二・七メートル、平野部は一―一・五メートルの積雪がある。

縄文時代の遺跡には虚空蔵山こくぞうやま遺跡(時田)相馬山そうまさん遺跡(同上)大舟おおふね遺跡(大舟)八幡原はちまんはら遺跡(下奥田)平谷地ひらやち遺跡(上小松)千松寺せんしようじ遺跡(下小松)熊野堂くまのどう遺跡(朴沢)新蔵あらくら遺跡(玉庭)和合わごう遺跡(同上)しおさわ遺跡(上小松)などがある。

川西町
かわにしまち

面積:七四・一六平方キロ

信濃川左岸に位置し、東は信濃川を隔て十日町市、南は十日町市吉田よしだ地区、北は小千谷おぢや真人まつと地区・刈羽郡小国おぐに町、西は刈羽郡高柳たかやなぎ町・東頸城ひがしくびき松代まつだい町に接する。周囲にはさしたる高山はなく、南部境界の標高四九五・三メートルの権現ごんげん山を最高とし、これより低い山脈が町の中央を縦貫して、北部境界の倉下くらした(三五三・六メートル)に至る。山脈の東側は緩やかに信濃川へ向かって傾斜し、低位段丘は広い平野となり、集落が密集して穀倉地帯をなす。山脈の西側は信濃川支流の渋海しぶみ川の水系に属する仙田せんだ盆地で、広い山間に集落が点在し、縄文時代の遺跡が多い。交通は信州道が段丘上を南北に貫通し、信濃川の舟運も利用された。

川西町
かわにしまち

[現在地名]岩国市川西一―二丁目

城下建設当時に武家地として計画された川西地区に、承応年間(一六五二―五五)以後新たにできた町地。錦見にしみ町から山陽道の柱野はしらのに抜ける脇街道沿いの町で、錦見への渡場上からおよそ四町半。地元では川西の旧名により、棚井たない町ともよぶ。

川西地区には二〇〇軒近い武家屋敷があり、洪水で対岸の錦見町との連絡が絶えることなどにより、商店の必要上成立したものであろう。

町筋は、まず渡場の上から南へ一町三八間の川手かわてが最も早く町地になり、次いで角を西に折れて智光院ちこういん谷口までの縦町一町三五間、遅れて智光院谷口から西南へ曲がって疫神いちぶの前までの一町一一間ができた。

川西町
かわにしちよう

面積:五・五平方キロ

磯城しき郡の北端に位置し、北は生駒郡安堵あんど村・大和郡山市、東は天理市、南は三宅町、西は北葛城郡河合町に接する。奈良盆地中央の最低平部で、ほぼ北境を大和川(初瀬川)が東から西へ湾曲して流れ、南からの寺川・飛鳥川が町域を、曾我川が西境を流れて、大和川に合する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川西町」の意味・わかりやすい解説

川西〔町〕
かわにし

山形県南部,米沢盆地南西部にある町。米沢市の北西に位置し,北は長井,南陽の両市に接する。 1955年大塚村,犬川村,小松町,中郡 (ちゅうぐん) 村,玉庭村が合体し成立。同年吉島村を編入。水田単作地帯。ほかに肉用黒牛を主とする畜産や果樹栽培も行われる。中心集落の小松は銘酒の産地でもある。鬼面 (おもの) 川扇状地には,中世からの富農層の館堀をめぐらした屋敷が散在。 JR米坂線が通じる。面積 166.60km2。人口 1万4558(2020)。

川西〔町〕
かわにし

奈良県北西部,奈良盆地中部にある町。 1975年町制。大和川諸支流の合流点付近の低湿地にあり,米作のほか野菜,果樹栽培が行われる。かつては貝ボタン,膠 (にかわ) の特産地として知られた。中心地区の結崎 (ゆうざき) は能楽の観世流の発祥地。西部の唐院には島の山古墳がある。富貴寺の本堂は重要文化財。結崎付近には工業団地住宅団地があり,近畿日本鉄道橿原線が通る。面積 5.93km2。人口 8167(2020)。

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