村瀬秀甫(読み)むらせしゅうほ

改訂新版 世界大百科事典 「村瀬秀甫」の意味・わかりやすい解説

村瀬秀甫 (むらせしゅうほ)
生没年:1838-86(天保9-明治19)

囲碁八段,準名人。18世本因坊江戸大工の家に生まれる。幼名弥吉。8歳で本因坊家へ入門,文久年間(1861-64)7段となったが,本因坊相続問題で地方を遊歴。1879年研究会として方円社を主宰し,家元と分裂して翌80年新興棋院に発展させ,機関誌《囲碁新報》を編集配布した。これが月刊囲碁誌の嚆矢(こうし)である。彼は幕府扶持を離れて動揺していた棋院4家に代わって新時代の碁の指導を志し,国内ばかりでなく西欧まで指向した先駆者であった。86年17世本因坊秀栄と和解し本因坊を譲られたが,3ヵ月後急逝した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「村瀬秀甫」の意味・わかりやすい解説

村瀬秀甫
むらせしゅうほ
(1838―1886)

棋士。初めの名は彌吉。江戸・車坂下(東京都台東(たいとう)区)に生まれる。11歳初段、14歳本因坊家に入門、秀策(しゅうさく)とともに天才とよばれた。その後坊門とたもとを分かち、中川亀三郎、高橋周徳、小林鉄次郎らと方円社(ほうえんしゃ)を結成して自ら社長となり、天下の人材を擁し、その勢威は坊門をしのいだ。のち秀栄(しゅうえい)の跡を襲い18世本因坊を継ぐ。著者に『方円新法』がある。また方円社社長時代に雑誌『囲碁新報』を発刊した。現在なお専門棋士の間でも、芸をもっとも高く評価されている1人である。

[河野直達]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「村瀬秀甫」の解説

村瀬秀甫 むらせ-しゅうほ

本因坊秀甫(ほんいんぼう-しゅうほ)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の村瀬秀甫の言及

【碁】より

…幕府の崩壊により家元は禄を離れ,碁界にとっての苦難の道が始まる。
[方円社から日本棋院へ]
 明治維新後の新しい波は秀策の弟弟子村瀬秀甫によって起こされた。家元制を否定する組織〈方円社〉は一般社会への碁の普及を図り,雑誌《囲棋新報》(1879‐1924)を発行するなど時流にのって発展した。…

【方円社】より

…囲碁の研究会。1879年4月,村瀬秀甫,中川亀三郎,小林鉄次郎が本因坊,林,安井の家元と計って結成した。しかし同年9月,家元が秀甫,中川らを破門して分裂したため,翌80年秀甫が社長となって新興棋院として再発足し,新たに家元と関係なく段位制を施行することを東京府知事に届け出た。…

【本因坊】より

…秀和の子17世,19世秀栄は明治後半の碁界で不敗の名人とうたわれ,今もその平明な碁風を慕う人が多い。18世秀甫(しゆうほ)(村瀬秀甫)は奔放な碁風で知られるが,1879年方円社を創設し,権門の庇護を離れた碁を,日本中津々浦々まで広めた功績で高く評価される。21世秀哉(しゆうさい)(本因坊秀哉)は最後の世襲本因坊で,その引退をもって本因坊の名跡は,本因坊位継承全日本専門棋士選手権戦(通称本因坊戦)のタイトルとして生まれかわった。…

※「村瀬秀甫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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