来村
くしくむら
[現在地名]国見町櫛来
伊美浜村・伊美中村・野田村などの東に位置し、櫛来川の流域に展開する。東は岐部村。中世櫛来別符(浦)の遺称地。小倉藩元和人畜改帳では蔵納分と熊谷平左衛門・佐藤小三郎知行分に分筆され、蔵納分は加子分との注があり、高八二石余、家数一五、うち百姓本屋三・山ノ口本屋一、庭屋・牛屋・名子ともに一一、人数二三、うち百姓三・名子一、牛四。熊谷平左衛門等知行分は高四二〇石余、家数七八、うち百姓本屋三五・鍛冶本屋一。隠居・庭屋・牛屋・名子ともに四二。
来村
くのむら
[現在地名]宇和島市宮下・川内・寄松・保田
宇和島城下町の南方にあり、来村川流域から宇和島湾岸に及ぶ村。中世の来村郷の中心で、「
墅截」に記された太閤検地の石高二千四九三石五斗の大村である。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「来村 茅山有、谷川有」とある。天保郷帳にも「来村」と記され、幕府公簿上は幕末まで一村として扱われているが、宇和島藩内では、江戸初期から里方を河内(川内)村・寄松村・宮下村・稗田村の四村に、浦方を坂下津浦・石応浦・小池小浜浦・蕨平浦の四浦に分割していた(
墅截)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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