杭瀬庄(読み)くいせのしよう

日本歴史地名大系 「杭瀬庄」の解説

杭瀬庄
くいせのしよう

市域南東部に所在した庄園。江戸時代の杭瀬村を遺称とする。承徳三年(一〇九九)四月二二日の藤原通俊処分状案(壬生家文書)に「杭瀬嶋領田」とみえ、神崎かんざき川河口の砂洲が陸地化して島状になった地域に開かれた所領。久寿三年(一一五六)の藤原経定処分状案(同文書)には杭瀬庄とあり、以後の処分状には庄号で記載されている。承保年中(一〇七四―七七)の開発とされ、藤原通俊から女婿の藤原経実(藤原師実の子)の所領となり、嘉承元年(一一〇六)に所当官物免除の国司免判を獲得し、以後鎌倉時代末期の藤原氏女まで九代にわたって子孫が領家職を相伝していった(元亨三年二月日「杭瀬庄雑掌申状案」尼崎市教育委員会所蔵文書)。藤原氏女が相伝した領家職は公田一二町六反余、一七名に編成され、名別に諸用途銭等の賦課があり、道場免・八講田などが含まれていた(文和三年八月一〇日「杭瀬庄領家職得分注文案」壬生家文書)。立券状によると、西は「長渚江」で限られていたといい(前掲雑掌申状案)、開発当初は江によって周囲とは隔てられていたが、時代とともに土砂堆積などによって江の陸地化が進み、鎌倉時代後期になると、近隣庄園との境界や新たに陸地化した部分の帰属をめぐって領主間の争いが頻発するようになる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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