藤原通俊(読み)ふじわらのみちとし

精選版 日本国語大辞典 「藤原通俊」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐みちとし【藤原通俊】

平安後期の歌人。経平の子。従二位権中納言に至った。礼部納言と称された。「後拾遺和歌集」の撰者となり、「若狭守通宗朝臣女子達歌合」の判者などとして活躍した。その歌は「後拾遺和歌集」以下勅撰集などにみられる。永承二~康和元年(一〇四七‐九九

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デジタル大辞泉 「藤原通俊」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐みちとし〔ふぢはら‐〕【藤原通俊】

[1047~1099]平安中・後期の歌人。白河天皇の命により、「後拾遺集」を撰進。歌は「後拾遺集」などにみえる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原通俊」の意味・わかりやすい解説

藤原通俊
ふじわらのみちとし
(1047―1099)

平安後期の歌人。小野宮(おののみや)流の経平(つねひら)の子。実母は高階(たかしな)成順と伊勢大輔(いせのたいふ)との女(むすめ)であるともいう。父は受領(ずりょう)で経済力があり、その地位は兄通宗(みちむね)が継ぎ、通俊は、受領階層が時を得た趨勢(すうせい)に乗じて白河院に信任され、近臣として活躍し、昇進して従(じゅ)三位参議右大弁に至った。1075年(承保2)勅撰(ちょくせん)集の撰者を命ぜられ、86年(応徳3)『後拾遺(ごしゅうい)集』を撰進した。「ひとへにをかしき風体」を基調としたこの集は、歌壇に多くの論議を呼び起こした。『後拾遺集』完成への過程で源経信(つねのぶ)の意見を問うた『後拾遺問答』がある。87年に集を小改訂し、目録、序を作成。この後は多くの公事(くじ)に奉仕、能吏としての評価が高かった。有職(ゆうそく)故実に詳しく、漢詩文に優れ、大江匡房(おおえのまさふさ)と並称された。和歌は承保(じょうほう)2年(1075)、承暦(じょうりゃく)2年(1078)以下の歌合、『後拾遺集』以下の勅撰集にみえる。趣向や表現に新しさが感じられるが、理知的な傾向の歌が多い。歌論は「通宗朝臣(あそんの)女子達歌合(むすめたちのうたあわせ)」の判詞(はんし)にみえ、「歌めく」「めづらし」を重んじている。承徳(じょうとく)3年8月16日没。

井上宗雄

 あなじ吹く瀬戸(せと)の潮合(しほあひ)に舟出(ふなで)してはやくぞ過ぐる佐屋形(さやかた)山を

『井上宗雄著『平安後期歌人伝の研究』(1978・笠間書院)』

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原通俊」の意味・わかりやすい解説

藤原通俊 (ふじわらのみちとし)
生没年:1047-99(永承2-康和1)

平安後期の廷臣,歌人。大宰大弐経平の子。従二位権中納言に至る。1086年(応徳3)白河天皇の勅命により《後拾遺和歌集》を撰集して奏覧した。当時の歌界に重きをなした源経信,大江匡房をさしおいての撰者任命は,天皇の近臣ゆえのにおいもあって非難を浴び,源経信《難後拾遺》によって通俊の撰集は低く評価された。経信への答えは《後拾遺問答》にうかがわれるが,通俊の立場は機知的なおもしろさを志向する新風の主張にあって,経信の求める格調の高さと異なるものであった。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「藤原通俊」の解説

藤原通俊

没年:康和1.8.16(1099.9.3)
生年:永承2(1047)
平安末期の公卿,歌人。大宰大弐藤原経平と少納言藤原家業の娘の子とされるが,実母は筑前守高階成順の娘。蔵人頭・右大弁を経て参議となり,従二位権中納言・治部卿に至る。姉が藤原実季の妻となり鳥羽天皇の母藤原苡子を生み,妹が白河天皇の典侍となり覚行法親王を生むなどの縁で,白河・堀河両朝で活躍し,大江匡房と並ぶ名臣と称された。兄通宗ともども歌才に恵まれ,白河院歌壇の中心的メンバーであった。承保2(1075)年に白河天皇より勅撰集編纂の命を受け,応徳3(1086)年に『後拾遺和歌集』を選進した。<参考文献>井上宗雄『平安後期歌人伝の研究』

(渡辺晴美)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原通俊」の解説

藤原通俊 ふじわらの-みちとし

1047-1099 平安時代後期の公卿(くぎょう),歌人。
永承2年生まれ。大宰大弐(だざいのだいに)藤原経平の次男。母は高階成順(なりのぶ)の娘。白河天皇の近臣として活躍。応徳元年(1084)参議兼右大弁。のち権(ごんの)中納言,従二位。礼部納言とよばれる。小野宮流の有職(ゆうそく)家。歌人としての才もあり,「後拾遺和歌集」を撰進した。承徳(じょうとく)3年8月16日死去。53歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原通俊」の意味・わかりやすい解説

藤原通俊
ふじわらのみちとし

[生]永承2(1047)
[没]承徳3(1099).8.16.
平安時代中期の歌人。経平の子。従二位権中納言。白河天皇に寵愛され,『後拾遺和歌集』の撰者となり,承保2 (1075) 年,承暦2 (78) 年の『内裏歌合』など多数の歌合に出詠,判者となった。『後拾遺集』以下の勅撰集に 25首余入集。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原通俊の言及

【後拾遺和歌集】より

…《後拾遺集》とも呼ぶ。撰者は藤原通俊(みちとし)。20巻。…

※「藤原通俊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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