日本歴史地名大系 「東倉吉町」の解説 東倉吉町ひがしくらよしまち 鳥取県:米子市米子城下東倉吉町[現在地名]米子市東倉吉町・朝日町(あさひまち)・角盤町(かくばんちよう)二丁目四日市(よつかいち)町の西にあり、西へ延びる通り両側に沿った町人町。西は西倉吉町に続く。総間数一〇〇間、覚証院(かくしよういん)小路(二〇間)・判屋(はんや)小路(二〇間)があり、加茂(かも)川北岸に柳町(やなぎまち)通(三四間)があった(明治二年「町々間数等書上」米子市史)。元禄八年(一六九五)の米子町中竈之覚(同書)では家持三八軒・借家四八軒。北裏加茂川以北には湿田性の耕地があり、文化元年(一八〇四)の下札に基づく生高六二石余、物成三七石余(同書)。当町は中村氏時代久米(くめ)郡打吹(うつぶき)城下(現倉吉市)から移住させられた町人によって町立てされたと伝え、町名もこれに由来する。東町とも称した(前掲竈之覚)。町禄はまず小間物・履物・足袋など、宝暦八年(一七五八)呉服・太物も許可され(「諸願書控」鹿島家文書)、他国商人の出入りが多くなるにしたがって宿屋株も許可された。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報