米子湊(読み)よなごみなと

日本歴史地名大系 「米子湊」の解説

米子湊
よなごみなと

中海南東の最奥部を占め、米子市街地の西方にある。北東部は弓浜半島が延び、西は中海に点在する小島をぬって島根県安来やすぎ市・松江まつえ市方面に通じる。古くは加茂かも浦と称されたらしい。中世末期まで米子湊の呼称は、旧加茂川河口部の現在の米子港よりは新加茂川河口部の深浦ふかうら寄りをさしたとみられるが、近世初頭米子城主中村氏の時代に両湊の役割が分けられたことにより、旧加茂川河口部なだ町西側の湊のみが米子湊とよばれるようになった。天正三年(一五七五)六月二一日京都からの帰路「よなこといへる町」に一泊した島津家久一行は、翌二二日明け方船を仕立てて出雲方面へ出発した(家久君上京日記)。具体的な出港地は記されていない。天正後期吉川広家は湊山みなとやま城築城当初から臨海地形の利を生かすため、海岸のかめ島までを埋立て港湾造成の基礎に着手したといわれ、中村氏の時代に港湾の本格的整備が完了したらしい。慶長七年(一六〇二)中村氏家老横田村詮が発給した免状(伯耆志)によれば、米子浦惣船頭中に対し、同浦での船積みは船頭船持の面々が順番で行うこと、以後自国他国を問わず船をもちたいと思う者が集まることを許可しており、他地域の船の出入港を自由にすることにより商業活動の繁栄をはかろうとする意図がうかがえる。このとき米子浦(米子湊)は商港として位置づけられたこととなり、軍事的意味合いの強い深浦とは役割を異にすることとなった。商港としての米子湊は寛永九年(一六三二)以降米子荒尾氏の下でも継承された。正徳五年(一七一五)江戸表より因伯灘手大所について尋ねられた際の返答にはさかい(現境港市)などと並んで米子があげられており、藩政期廻船の出入りする西伯耆の重要港湾であったことを示す(在方御定)

藩政期初め外堀を兼ねて中海に流入する加茂川河口に船繋場を設け、湊に最も近い灘町に藩の番所が置かれた。この番所は寛文五年(一六六五)荒尾氏からの申出により深浦にも船番所が許可されたのに伴い、川口かわぐち番所と称されるようになった(米子倉吉松崎八橋御定)。一七世紀中頃のものと推定される伯州米子御城絵図(米子市立図書館蔵)、享保五年(一七二〇)の湊山金城米子新府(県立博物館蔵)によれば、加茂川右岸川口番所横手から海へ向かって長さ五〇間、幅三・五間の突堤が出ている。この突堤の南側に幅二二間の水路を隔てた沖合に幅一間半・長さ三二間の突堤が築かれていた。船繋場所はこの両突堤に囲まれた部分とみられるが、水深が比較的浅いため五〇―四〇〇石積の船をつなぎ、五〇〇石積以上の船はさらに沖合に係留したらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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