日本歴史地名大系 「東町」の解説
東町
ひがしまち
厳島神社の東側に位置する町人町の総称。西側の西町・南町に比べ成立は遅く、史料上は、寛延四年(一七五一)閏六月の延市の願書に芝居引請けの町役人として、東町の町人三名がみえる(「厳島のび市之控」大願寺蔵)のが早い。しかし実際は西町・南町に対応する町名として相当早くから呼称されていたと思われ、天文二一年(一五五二)の陶晴賢の厳島掟に「当島見世屋敷事、当町人之外不可存知事」とあり、厳島にやってくる諸国商人が町屋敷を買うのを禁止している。また毛利氏は厳島の戦に備えて島の町人より人質をとって留置いたといわれるように、すでに陶氏の被官となった町人を中心に町中衆が結成されていたようである(吉川家中並寺社文書)。
これら町人は天正一四年(一五八六)の毛利輝元厳島社頭掃除之次第(巻子本厳島文書)に「築地ぬけ候ハヽ、是又惣中うち寄つくへき也」とみえるように、惣中とよばれ、社家三方に対していちおう独立した自治的な性格をもつほどになり、年寄三名ぐらいを選出して町政運営を行っていたといわれる(吉田家文書)。ここにみられる町人の組織は、後に社家三方の三手代と対等の立場で厳島の町行政の運営にあずかる東・西・南各町の町年寄の前身を示すと思われ、東町といわないまでも、地域的なまとまりが形成されていたと考えてよい。この町人町は
こうした東町形成の方向をみると大町は西町や南町と同様な発展をたどるが、東町の大部分を構成する有浦の場合は、島の商業の発展とともに急速に形成される。
東町
ひがしまち
石堂川と
東町
あずまちよう
- 鹿児島県:出水郡
- 東町
長島のほぼ東半と北に連なる
旧石器時代の遺跡では、いずれも内陸部に位置する
東町
ひがしちよう
東町
ひがしまち
東町
ひがしまち
東町
ひがしまち
東西に通ずる
東町
ひがしまち
福山城の東側は、武家屋敷を一筋置き、その東は南北に長い町家地となっていたが、さらにその東、入江(浜川)の北に町家地を囲む形で武家屋敷地があり、
城下町と在方との境界には外堀から分水した溝川を東町周辺と
東町
ひがしちよう
東町
ひがしまち
東町
ひがしまち
東町
ひがしまち
東町
ひがしまち
東町
ひがしまち
延宝年間(一六七三―八一)の衣下町の図をみると、現字
元和九年(一六二三)の挙母東町田畠名寄帳(豊田市史)によると、町は七右衛門組・七左衛門組・仁兵衛組・孫兵衛組・茂右衛門組・又八組・弥太組が各々八軒ずつ七組に分れ、それぞれの本石合計は四三〇石余となる。
東町
ひがしまち
東町
ひがしまち
城下町の親町三町の一。
「信府統記」に「東町 南北長サ六町三拾二間半、又六町二十四間共、家数百六十五軒、幅三間半、中町境大橋ノ北際ニ同心番所アリ、大キサ二間ニ九尺、川端木戸アリ、是上土ヘノ路ナリ、筋違橋 石橋ナリ、辰巳ヨリ戌亥ヘ筋違ニ掛リ、此所町屋東西ノ側共ニ筋違ニ立ツ、町中ニ番所五ケ所アリ、番人町ヨリ勤ル、内二ケ所夜計リ、山家小路 東側ナリ、東町境ヨリ南側五十七間、北ケ輪五十二間四尺、家数二十七軒、町幅三間、昔ハ紺屋町トモ云ヒ、
東町
ひがしのちよう
東町
ひがしまち
倉吉陣屋の東に広がる江戸期の武家屋敷地。初め
東町
ひがしまち
東町
ひがしちよう
東町
ひがしまち
東町
ひがしまち
東町
ひがしまち
昭和三年(一九二八)一月から同四七年までの町名。苫小牧市の中心部に位置し、現在の
東町
ひがしまち
東町
ひがしまち
東町
ひがしまち
東町
ひがしまち
東町
ひがしまち
東町
ひがしちよう
東町
ひがしちよう
東町
ひがしまち
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報