東別所村(読み)ひがしべつしよむら

日本歴史地名大系 「東別所村」の解説

東別所村
ひがしべつしよむら

[現在地名]太田市東別所

飯塚いいづか村の南にあり、東は邑楽おうら上小泉かみこいずみ(現大泉町)、南は同郡古氷ふるこおり(現同上)、西は東矢島ひがしやじま村。郷帳類では別所村だが、同じ新田につた郡内に同名の村があるために東別所村とよばれ、史料上も東別所村と記されることが多い。寛文郷帳では田方二〇九石余・畑方一五九石余、館林藩領。元禄郷帳では旗本山岡領。文政一一年(一八二八)の家数人別書上帳(森尻文書)でも同じく山岡領で、家数三六(うち寺一)・人数一八六。


東別所村
ひがしべつしよむら

[現在地名]袋井市鷲巣わしず

周知すち郡に所属。村松むらまつ村の西、宇刈うがり丘陵の南端部に位置し、南東端を沖之おきの川が西流する。正式には別所村というが、西方に同名村があるため東別所と通称した。中世は山名やまな庄のうち。永禄一一年(一五六八)一二月二一日の徳川家康判物(久野文書)に「別所」とみえ、家康は忠節に対する報賞として同地ほかを久野三郎左衛門(宗能)一門に与えている。


東別所村
ひがしべつしよむら

[現在地名]安城市東別所町

東は西本郷にしほんごう(現岡崎市)、南は別郷べつごう村に隣する。藩政期岡崎藩領、寛永一三年(一六三六)の村高三八石三升。こうした小集落が一村として独立しえたのは万歳師の村として特別な恩典を被ったことに由来するからであろう。のち別郷村・山崎やまざき村などから人が移住し、村高は西別所村を含み二五〇石三斗余、うち新田畑三〇石八斗余(岡崎管内記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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