東柳川小路
ひがしやながわこうじ
柳川小路の名称は「国誌」によれば、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦の後、加藤清正が西軍に属した筑後柳川(現福岡県柳川市)の立花宗茂の家臣らを引取って保護を加え、住まわせたことに由来するといわれる。「事蹟通考」によれば宗茂が旧領に復した時、立花家家臣は皆柳川に帰ったが、重臣小野和泉鎮行は熊本で死去し、本妙寺塔頭東光院境内に葬られたという。しかし細川氏時代には、柳川小路には柳川立花氏の家臣に系譜する者はほとんどみえない。
京町台地の最も東側を走り、台地上と谷間を結ぶため凸凹の坂道で、最も低い所から坪井・寺原方面に下りる迫門坂(背戸坂)がある(現在迫門坂からバス停留所京町柳川との間は階段)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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