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立花宗茂 たちばな むねしげ

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美術人名辞典の解説

立花宗茂

安土桃山・江戸前期の大名。名は宗虎・統虎・鎮虎・正成・俊正・経正。高橋紹運の長男、戸次(立花)道雪の養子。柳川城主。文禄・慶長の役で力戦。関ケ原の戦で西軍に加わるが敗れ、改易となる。のち徳川秀忠に仕え、陸奥国棚倉一万石の大名・旧領柳川藩主。寛永19年(1642)歿、74才。

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デジタル大辞泉の解説

たちばな‐むねしげ【立花宗茂】

[1569~1642]安土桃山・江戸初期の武将。筑後柳川城主。豊臣秀吉に仕えて文禄の役慶長の役に活躍。関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、のち、徳川家康に仕えた。大坂夏の陣後、柳川城主に復帰。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

立花宗茂 たちばな-むねしげ

1569-1643* 織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)12年8月13日生まれ。高橋紹運の長男。戸次(べっき)(立花)鑑連(あきつら)の養子。豊臣秀吉の九州平定に従軍,天正(てんしょう)15年筑後(ちくご)(福岡県)柳河(やながわ)城主となる。関ケ原の戦いで西軍に属し所領を没収されたが,のち陸奥(むつ)棚倉藩(福島県)藩主をへて,大坂の陣の戦功で元和(げんな)6年旧領を回復し柳河藩主立花家初代となった。10万9600石。寛永19年11月25日死去。74歳。初名は統虎。号は立斎。

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世界大百科事典 第2版の解説

たちばなむねしげ【立花宗茂】

1568‐1642(永禄11‐寛永19)
豊臣期・江戸初期の武将。筑後柳河藩主。初名は宗虎,統虎。剃髪後,立斎と号した。父は高橋紹運立花鑑連(あきつら)(戸次道雪(べつきどうせつ))の養子となり,1585年(天正13)立花城主。87年豊臣秀吉の九州平定に功をたて,筑後山門(やまと)郡等4郡13万2000石を与えられ柳河城主。朝鮮の役では碧蹄館の戦で名を挙げた。関ヶ原の戦では西軍に属したため所領没収,のち奥州棚倉に移封されたが,大坂の陣の功で1620年(元和6)旧領5郡10万9600石に復領した。

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大辞林 第三版の解説

たちばなむねしげ【立花宗茂】

1569~1642) 安土桃山・江戸初期の武将。高橋紹運の子。立花道雪の養子。豊臣秀吉の九州出兵の時に功をたて、柳川一三万石を領した。関ヶ原の戦いで西軍に属し改易されたが、のち旧領を回復して柳川藩祖。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

立花宗茂
たちばなむねしげ

[生]永禄12(1569).8. 豊後
[没]寛永19(1642).11.25. 江戸
安土桃山,江戸時代初期の大名。筑前岩屋城主高橋紹運の子として生れ,筑前立花城主立花道雪の養子となる。初名は統虎 (むねとら) 。号は立斎。豊臣秀吉に仕え九州征伐の際の功により天正 15 (1587) 年筑後柳川で 13万 2200石を与えられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

立花宗茂
たちばなむねしげ
(1569―1642)

安土(あづち)桃山時代~江戸初期の大名。筑後(ちくご)(福岡県)柳川(柳河)(やながわ)藩藩祖。高橋紹運(じょううん)長男。永禄(えいろく)12年豊後(ぶんご)(大分県)に生まれる。1580年(天正8)立花鑑連(あきつら)の養子となり、85年家督を継いだ。86年九州の諸大名に先だって豊臣(とよとみ)秀吉に服し、翌年の九州征伐には先鋒(せんぽう)を務めた。その戦功により柳川13万石余を与えられ、従四位下侍従(じゅしいげじじゅう)に叙任、左近将監(さこんしょうげん)と称した。秀吉の小田原攻略、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に参戦。関ヶ原の戦いで西軍に属して、改易されたが、1603年(慶長8)徳川秀忠(ひでただ)に召し出されて、陸奥棚倉(むつたなぐら)(福島県棚倉町)に1万石を与えられた。1610年3万石に加増。大坂冬・夏の陣に参戦。20年(元和6)柳川城主となっていた田中氏の絶家・改易で、ふたたび柳川周辺に10万9000石余を与えられ、旧領のほとんどを回復した。22年飛騨守(ひだのかみ)。37年(寛永14)隠居。38年島原・天草一揆(いっき)の鎮圧に参加。その後剃髪(ていはつ)して立斎(りゅうさい)と号した。室は立花鑑連娘、のち離婚して家臣矢島秀行(やじまひでゆき)娘を継室とし、その没後葉室頼宣(はむろよりのぶ)娘をめとった。[荒野泰典]

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世界大百科事典内の立花宗茂の言及

【棚倉藩】より

…戦国時代は,常陸の佐竹氏の領域で,赤舘に出城が設けられていたが,関ヶ原の戦後,一時幕領となる。1603年(慶長8)立花宗茂が2万5000石で入封し藩をおこした。22年(元和8)丹羽長重が入封し,赤舘に代わって棚倉城を築城したが建設途上で転封され,27年(寛永4)磐城平藩主内藤氏の一族内藤信照が5万石で入封して,本格的な藩体制確立の諸政策を打ち出した。…

【筑後国】より

…【佐伯 弘次】
【近世】

[政治]
 1587年九州平定を終えた豊臣秀吉によって〈国割り〉が実施され,筑後は北部が小早川隆景(2郡。生葉,竹野等の諸説がある),毛利秀包(ひでかね)(山本,三潴等),南部が立花宗茂(山門,三池,下妻等),筑紫広門(ひろかど)(下妻)に分け与えられた。 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦の後,豊臣方に属した毛利秀包,立花宗茂,筑紫広門はいずれも改易された。…

【柳川[市]】より

…戦国時代,蒲池氏がここに城を築いていた。1587年(天正15)立花宗茂が入部,1600年(慶長5)筑後一国を領した田中吉政が城主となり,城郭を拡大し,城下町を建設した。20年(元和6)立花宗茂が再入部した。…

【柳河藩】より

…10万9600石。1587年(天正15)筑前立花城を居城とする立花宗茂が,豊臣秀吉の九州征伐ののち筑後柳河に配置されて成立し,石高は13万2200石。宗茂は関ヶ原の戦で西軍に味方したため改易となり,代わって1600年(慶長5)三河岡崎から田中吉政が入封し,筑後一国を支配し,石高は32万5000石。…

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