寺原(読み)てらばる

日本歴史地名大系 「寺原」の解説

寺原
てらばる

[現在地名]熊本市壺川こせん一―二丁目・坪井つぼい五丁目

京町きようまち台地の東側山麓崖下にあり、東は坪井川、南は内坪井町に接し、北は京町本きようまちほん丁に上る迫門せと(背戸坂・瀬戸坂)付近を限りとする。現在の坪井川は壺川小学校東側を流れるが、これはかつての内堀で、旧本流は現在の新川しんかわ橋の辺りで東に曲折しまた西に折れて、壺川小学校北側、流長りゆうちよう院前を通り、京町台地山麓を伝っていた。旧坪井川本流と京町台地との間の低地帯で、江戸時代の地図によると南はなか坂を境とする。北は迫門坂を含んで京町本丁の宇土うと小路下までと、迫門坂中途から北に延びて現稗田ひえだ町の崖下への小路まで含まれる。

〔南寺原〕

寺原地域は大きく南寺原と北寺原に分けられる。南寺原は坪井川に架けられた庚申こうしん橋と寿昌じゆしよう寺とを東西に結ぶ道路から南の地域である。京町台地山麓にほぼ並行な三本の南北の通りと、南端北端とそのほぼ中ほどを通る東西の三本の通りによって形成される。

〔寿昌寺丁〕

台地山麓に最も近い南北の通りは明治以降寿昌寺じゆしようじ丁と称した。寿昌寺丁から山麓側に入る三本の袋小路がある。元禄(一六八八―一七〇四)頃には寿昌寺丁の西側に間口四、五間、奥入八、九間の屋敷が一五、袋小路に計六屋敷並び、歩之御小姓の切米取衆屋敷が一八、切米取屋敷が三である。寿昌寺丁の東側は切米取衆屋敷が二一並ぶ。山麓に入る寿昌寺に近い袋小路に、江戸末期に郡代・近習取次および甲州流軍学師範として著名であった小野武次郎屋敷があった。

〔中ノ丁〕

寿昌寺丁の東五〇メートルに南北の通りがあり、明治以降なかノ丁と称された。南端はほぼ直角に東西の通りにつながり、この東西の通りに面して北向きに切米取屋敷四が並ぶ。中ノ丁では西側に切米取屋敷一四、知行取屋敷二が並ぶ。切米取屋敷はいずれも間口四、五間、奥入七、八間でびっしりと並ぶ。知行取屋敷は間口一〇間半・奥入一〇間半の一五〇石安藤五介屋敷と、間口二〇間・奥入一一間の阿蘇財津組の一人で一五〇石の財津金平屋敷である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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