東根村(読み)ひがしねむら

日本歴史地名大系 「東根村」の解説

東根村
ひがしねむら

[現在地名]東根市東根・三日町みつかまち新田町しんでんまち下川原しもがわらさぎもり温泉町おんせんまち

みだれ川扇状地の北扇側部、西流する白水しろみず川と日塔につとう川の合流点右岸を中心に広がる。村名は東側に連なる山並の麓に立地することによるという。宝暦一〇年(一七六〇)の村明細帳(東根市役所蔵)によれば東西九町余・南北五町余、南は原方はらかた村・小林こばやし新田、東は村がなく、西は宮崎みやざき村へ一二町余、六田ろくた村へ一一町余、南は神町じんまち村へ三四町余、北は楯岡たておか(現村山市)へ一里七町余とある。

正平一一年(一三五六)六月二四日の紀年銘をもつ普光寺梵鐘銘(薬師寺蔵)に「羽州中央 小田嶋庄 東根境致 白津之郷 山号仏日 寺号普光」とある。この洪鐘を寄進した前備前守平長義は小田島長義で、正平二年鎌倉から当地に来住し小田島おだしま(東根城)を築き、御荷越おにこし山を開いて鎌倉鶴岡八幡から若宮八幡宮を勧請したと伝える。観応三年(一三五二)七月四日、小田島庄内東根孫五郎跡が足利尊氏によって円頓宝戒ほうかい(現神奈川県鎌倉市)に造営料として永代寄進され(「足利尊氏寄進状案」宝戒寺文書)、同年七月二二日には長井備前太郎に対してこの地を保証する使節遵行を命じている(「足利尊氏御判御教書案」同文書)。そののち東根城には天童城主里見頼直四男頼高が入り、応永二年(一三九五)以後当地を支配、東根氏を称したという。天文二四年(一五五五)六月一三日の日瑜置文写(若宮八幡神社文書)にみえる大檀那源頼息は、東根城主里見家六代である。


東根村
ひがしねむら

[現在地名]南河内町東根

川右岸の低地に位置し、東は磯部いそべ村。近世初めは幕府領、慶長一〇年(一六〇五)以後は出羽秋田藩領。寛永五年(一六二八)の万相定覚(国立公文書館蔵)に村名がみえ、高五一三石余、納米一四三石余・免率二ツ八分、肝煎手作三〇石・肝煎免米一石・関免米三石余。慶安郷帳では田高三九八石余・畑高八六石余。寛永五年には足軽五人分の諸役の宥免願を出している(梅津政景日記)。享保年間(一七一六―三六)の万端用留書(坂本重通文書)によると蚕種生産が盛んであったが、同一九年には夏から秋にかけて四度の洪水に見舞われ、大災害を被っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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