東福村(読み)とうふくむら

日本歴史地名大系 「東福村」の解説

東福村
とうふくむら

[現在地名]平田市東福町

水谷本庄みずたにほんじよう村の西に位置し、北東東郷とうごう村、北は久多見くたみ村、南西西々郷さいさいごう村に接し、南は平田村ぶん。近世前期までは南部の牧戸まきど(槙戸)辺りまで宍道湖が湾入していた。宝暦一四年(一七六四)の村旧記指出帳(久多美村誌)に「七八拾年以前迄は天神前舟川迄壱円湖水にて、まこも生繁り、天神境内松之木に舟繋と申所、唯今にては壱里沖に家出来申候」とみえる。この天神は牧戸の西の横手よこて地区にあった宮で、東へ流れる現在の天神てんじん川の流域は、かつて深く湾入していた宍道湖岸であったことを物語る。およそ一七世紀末までの状況であろう。村の規模は前掲旧記指出帳では東西一九町余・南北一六町余とあるが、明治六年(一八七三)の地理取調書(県立図書館蔵)では東西一〇町余・南北二八町余、平田町から北上してきた杵築道(幅二間より一間半)は牧戸を通り東へ延びていた。古くは西々郷村と一村西郷さいごう(のちに福村)と称し、西郷村は中世の楯縫西たてぬいさい郷を継承する村であったという。

慶長九年(一六〇四)楯縫郡西郷村御検地帳では屋敷方は本郷と西分に分けて記載され、耕地も同様に本郷と西分に区分できる。反別は本郷八九町余・西分三〇町余で、名請百姓八〇人のうち本郷が六〇人、西分は二〇人。すでに本郷と西分は分村の兆しがうかがえるが、のちに本郷が当村に、西分が西々郷村にと村切りがなされたと考えられる。しかし、その後の郷村帳・国絵図の類では西郷村の村名はみえず、替わってふく村の名が散見する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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