楯縫郡
たてぬいぐん
近世前期までは北は日本海に面し、東は秋鹿郡、南は宍道湖および出雲郡、西は同郡に接していたが、寛文年中(一六六一―七三)頃に出雲郡(出東郡)との間で郡域の変更があったため、以降は西方の一部で神門郡と接するようになった。また東林木村・西林木村(現出雲市)と、中世当郡多久郷内とされていた久木村(現斐川町)を除き、郡域はすべて現在の平田市域に含まれる。「和名抄」東急本国郡部では「多天奴比」と訓じる。
〔古代〕
「出雲国風土記」に記す伝承によれば、神魂命が天御鳥命を楯部として当郡の地に下し、杵築大社(出雲大社)の装束の楯を作らせたことが郡名の由来という。藤原宮跡出土木簡に「楯縫評乃呂志里物
知米」とみえる。風土記は佐香・楯縫・玖潭・沼田の四郷(里は各郷ともに三)と余戸里・神戸里を載せ、郡家は楯縫郷内、現平田市多久谷の灘地区字古殿辺りにあったと推定されている。郡家から秋鹿郡家へは伊農川(現伊野川)を、出雲郡家へは宇加川(現宇賀川)をそれぞれ越えて通道が通っており、各郡境である伊農川までは八里二六四歩、宇加川までは七里一六〇歩であった。同書によれば新造院が沼田郷にあり、現平田市西郷町東谷地区の字表辺りに比定されている。また当郡で産出する紫菜(海苔)は出雲国随一であった。天平五年(七三三)における郡司は大領が外従七位下勲一二等出雲臣大田、少領は外正六位下勲一二等高善史、主帳は無位物部臣。大領出雲臣大田は前出沼田郷の新造院を造立している(同書)。同六年の出雲国計会帳(正倉院文書)には楯縫郡人として物部大山の名がみえる。
「延喜式」神名帳記載の楯縫郡小九座は玖潭神社(久多美社、現平田市久多美町の玖潭神社に比定)、佐香神社(佐加社、現平田市小境町の佐香神社に比定)、宇美神社(宇美社、現平田市平田町の宇美神社に比定)、多久神社(多久社、現平田市多久町の多久神社に比定)、御津神社(御津社、現平田市三津町の御津神社に比定)、能呂志神社(乃利斯社、現平田市野石谷町の野呂石神社に比定)、許豆神社(許豆社、現平田市小津町の許豆神社に比定)、水神社(水社、現平田市本庄町の水神社に比定)である(括弧内の社名は風土記の表記)。天平一五年七月五日、楯縫・出雲二郡は激しい雷雨に見舞われ、山岳が崩れて家を壊し田を埋めたという(続日本紀)。延暦二〇年(八〇一)六月二七日、島根郡人・出雲郡人らとともに楯縫郡人品治部首真金が長門国に配流されている(類聚国史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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