東金町(読み)とうがねまち

日本歴史地名大系 「東金町」の解説

東金町
とうがねまち

[現在地名]東金市東金・南上宿みなみかみじゆく東上宿ひがしかみじゆく東岩崎ひがしいわさき東新宿ひがししんじゆく八坂台やさかだい日吉台ひよしだい

現東金市の西部に位置し、東金御成とうがねおなり街道が通り、東金道が分岐する交通の要衝である。古くは岡山おかやまと称し、古代の山辺やまべ郡岡山郷(和名抄)の遺称地とする説もある。また辺田方へたがたともいい、大永期(一五二一―二八)酒井氏が東金城に居城してから東金町と称したとする説(上総国誌)、慶長一九年(一六一四)徳川家康鷹狩のための東金御殿が造営されてから東金町としたとする所伝とがある(「東金町明細帳」県立図書館蔵)。江戸時代の郷帳類には辺田方村と記される場合が多い。文禄三年(一五九四)の東金領辺田方郷検地帳写(北村家文書・海保家文書)が全一二冊ある。同年の上総国村高帳に東金町とみえ、高八二四石。正保国絵図でも東金町とみえ、同高。御殿の記載がある。江戸初期から寛文一〇年(一六七〇)まで幕府領(ただし寛永一九年―万治三年は下総佐倉藩領)。寛文八年の鷹場五郷組合帳では東金組のうちに東金町とあり、高七五〇石。同一一年老中板倉重矩領となり、のち同氏の移封に伴い下野烏山藩領、武蔵岩槻藩領、陸奥福島藩領と変遷し(「寛政重修諸家譜」「烏山町史」など)、福島藩領で幕末に至る。元禄郷帳では辺田方村とあり、古くは東金町と注記され、高八三六石余。宝暦一〇年(一七六〇)の前掲町明細帳によれば高七七六石余、田四八町四反余・畑四四町四反余、ほかに新畑六町三反余・高一五石余。毎年白輪柑子を領主に献上した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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