鷹狩(読み)たかがり

精選版 日本国語大辞典 「鷹狩」の意味・読み・例文・類語

たか‐がり【鷹狩】

〘名〙 飼いならした鷹、隼(はやぶさ)、刺羽(さしば)などの猛禽を使って鳥を捕えさせること。その使う鳥によって大鷹狩小鷹狩の別がある。古くから公家・武家の間で行なわれ、明治以降は皇室に継承されたが、現在は官・民ともほとんど行なわれていない。鷹野。放鷹。鷹猟。《季・冬》
※宇津保(970‐999頃)祭の使「兵(つはもの)を業として、悪を旨として、熊、たかかり、漁(すなどり)にすすめるものの」
[語誌](1)「書紀‐仁徳天皇四三年九月」に百舌鳥野に鷹を放ち雉を獲たとあるのが、記録に見える最初である。律令が施行されると、令制で兵部省の下に主鷹司(しゅようし)が置かれ、朝廷において鷹の飼育・調教が行なわれるようになった。
(2)平安時代に入っても、鷹への愛好は衰えず、嵯峨天皇(七八六‐八四二)は自ら「新修鷹経」を編纂している。源為憲撰の「口遊」の禽獣門には、甲斐・信濃・下野・陸奥・出羽・能登・越後・安芸・太宰府などから鷹を朝廷に貢納する期日が載せられており、鷹狩に使用する鷹が広く日本の各地から供給されていたことがうかがえる。

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デジタル大辞泉 「鷹狩」の意味・読み・例文・類語

たか‐がり【×鷹狩(り)】

飼い慣らし訓練したはやぶさを山野に放って、野鳥・小獣を捕らえさせる狩猟。古く朝鮮半島から伝来したといわれ、宮廷・武家に長く伝わった。放鷹ほうよう鷹野たかの 冬》

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鷹狩」の意味・わかりやすい解説

鷹狩
たかがり

鷹を飼い、山野に放ち野鳥をとる遊猟である。鷹野(たかの)、放鷹(ほうよう)ともいう。

[山中 裕]

歴史

日本

初見は『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇の43年(359)9月、百済(くだら)から伝えられたといわれている。しかし、鷹は元来、わが国に生息したものであり、その飼養の最初は応神(おうじん)天皇のときという説もある。令(りょう)制では兵部省のもとに主鷹司(しゅようし)が置かれ、「鷹犬調習せむ事」とあり、のち民部省に移し放鷹司と改称された。仏教思想の影響もあって、禁止令も多く出たが、奈良・平安時代にたいへん盛んになり、嵯峨(さが)天皇は儀式典礼に関心が深かったためもあって、『新修鷹経(ようきょう)』を撰(せん)し、君主の娯楽であることを明確にした。仁明(にんみょう)、陽成(ようぜい)、光孝(こうこう)、宇多(うだ)、醍醐(だいご)天皇等々、平安時代の天皇はこれを好み、北野、交野(かたの)、宇多野を天皇の狩場と定めた。『源氏物語』藤裏葉(ふじのうらば)巻にも「蔵人所(くろうどどころ)の鷹かひの北野に狩つかうまつれる」とあるように、のちには蔵人所のもとに鷹飼(たかがい)の職制を定められている。また光孝天皇のときには近衛府(このえふ)の官人または蔵人に鷹・犬をつけて諸国に下し、野鳥をとらせている。これを狩の使(つかい)という。

 正月の大臣家大饗(たいきょう)の儀には、犬飼とともに庭中に参り、酒宴にあずかる。この日の鷹飼の装束は、錦帽子(にしきのぼうし)、紫纈狩衣(しぼりかりぎぬ)、白布袴(はかま)、壺脛巾(つぼはばき)、浅履(あさぐつ)、紅褂(くれないのうちぎ)、鳥頸太刀(とりがしのたち)を身につけ、左手に鷹を据(す)え、右手に雉(きじ)を付ける枝を執るという(『安斎随筆』巻3に、鷹飼・犬飼装束は『江家次第(ごうけしだい)』巻2大臣大饗篇(へん)にありというが、現存の『江家次第』〈故実叢書本〉にはみえない)。朝廷のほか、親王や臣下も鷹飼を行っており、古くは『万葉集』の大伴家持(おおとものやかもち)の歌にもみえ、『三代実録』にも源融(とおる)の大和(やまと)国宇陀野(うだの)の例がある。また『今昔物語』には、宇治に住む民部卿(みんぶきょう)藤原忠文(ただぶみ)が醍醐天皇の皇子式部卿重明(しげあきら)親王に鷹狩の鷹を与えたが、親王にその鷹がなつかず、鷹を愛する主人忠文のもとへ帰ってしまった興味深い話がある。武家時代も盛んであったことは『吾妻鏡(あづまかがみ)』にみえるところであるが、鷹飼の禁令もしばしばみえている。鷹狩の流派は、平安時代末期に源政頼(まさより)の秘伝が存したという(『古今要覧稿』人事、鷹飼山詞)。

 鎌倉時代以後、西園寺(さいおんじ)、持明院(じみょういん)、二条、九条の4家をはじめ、尾張(おわり)の小笠原(おがさわら)家などが口伝を伝えた。また徳川家康は鷹狩を非常に好み、江戸周辺で鷹狩を行っている例が多くみられる。慶長(けいちょう)17年(1612)正月、家康は放鷹による鶴(つる)を内裏に献上した。しかし、5代将軍綱吉の時代には、「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」によって一時停止となった。が、吉宗(よしむね)のときに制度化して復興した。大名の鷹狩する場所を鷹場(たかば)といい、鷹装束なども制度化して大きく復興した。また鷹匠(たかじょう)と称し鷹を飼養管理する江戸幕府の職掌もあった。鷹狩は幕府の年中行事となって幕末まで行われたが、明治維新後は衰え、現在は宮内庁に鷹師・鷹匠が存在するのみである。鷹匠は将軍の鷹をあずかったので権威をもち、庶民は恐れていた。また鷹匠と密接な関係の職掌として「鳥見(とりみ)」があり、鷹場を巡検して野鳥の状態を見分する者もあった。

[山中 裕]

世界

鷹狩は人類が家畜の飼育に習熟する新石器時代に発生したが、発祥には、多元説と、中近東で発生して伝播(でんぱ)したとする2説があるが、後者が有力である。

 鷹狩は視野と馬の利用から平坦(へいたん)地が適するため、アジアでは、モンゴルシベリア東部、中国、トルキスタン、インドなどの広大な平野で紀元前1000年代から発達し、貴族や専門の鷹匠の努力で技術が高められた。ペルシアイラン)の王たちはトルキスタンの鷹匠から学んで宮廷の儀式に取り入れたが、いまでもイランは実猟のほか儀式の鷹狩を伝えている。チンギス・ハンは鷹狩を軍人のための最高の教科とした。マルコ・ポーロは、「シバの王の配下に1万人の鷹匠からなる軍隊があり、当時その狩りの獲物で全国民の食糧をほとんどまかなった」と記している。中国では、東北(満州)の住民から習得して漢民族間に広まり、漢・唐の時代に盛大であったし、元は国技として大規模な鷹狩を行い、遼(りょう)の天祚(てんそ)帝は鷹狩にふけったため国を滅ぼしたといわれている。朝鮮も、紀元ごろ東北の粛慎(しゅくしん)からこれを継承し、高句麗(こうくり)を中心に流行した。この地域で発達した鷹狩の技術は、中国に大きな影響を与えるとともに日本にも伝えられた。朝鮮は中国歴代王朝へ朝貢品としてタカを贈り、タカを介して国交を盛んにした。

 一方、南西へ広まったものはインド、イラン、エジプトなどの古代文明に迎えられて、ギリシア、ローマの鷹狩になり、中世のヨーロッパ諸国を風靡(ふうび)し、イングランドのサクソン王朝で開花した。中世の初め聖職者たちは、キリスト教の布教とともにヨーロッパへ鷹狩を広めた。西ゴート王国の領主たちは聖職者から鷹狩を奪って自分たちの特権にしようとし、517年に聖職者の猟を禁じた。フランク国王カール大帝は鷹匠の組織をつくり、支配者や貴族や騎士の間に鷹狩が盛んになった。鷹狩の最盛期は13世紀で、神聖ローマ帝国の鷹匠頭は宮廷における最高位の一つに数えられたし、ホーエンシュタウフェン王家のフレデリック2世は鷹狩を集大成した著述を残した。フランスのシャルル8世(15世紀)時代、優れたハヤブサは毛並みのよい乗馬と同値であった。このころ火薬の発達により、鷹狩はしだいに終わりに近づいた。今日では鷹狩は趣味として残っているにすぎないが、シベリア、中国、中近東をはじめイギリスやアメリカではかなり流行しており、アメリカには51団体がある。

[白井邦彦]

放鷹

使役するタカの種類はオオタカ、クマタカ、ハヤブサ、ハイタカなどがおもなものである。オオタカやハヤブサは、秋季渡ってきたとき、前者はハトをおとりにして鷹捕網(片無双網)で、後者は黐擌(はご)(黐(もち)を用いる猟法)でとらえ、クマタカは雛(ひな)をとらえて育成する。捕獲したタカは、つめや嘴(くちばし)の鋭利な部分を刃物で切り、脚(あし)に足革をつけて大緒を結び訓練にかかる。タカの訓練は長期にわたって、細心の注意のもとに行われるもので、鷹部屋に飼い、空腹にして人に慣らし、ついで灯火・車などをはじめ外界に慣らしたのち、徐々に獲物にあてていく。オオタカの獲物はすこぶる多く、キジ、ノウサギ、ガン、カモ、サギ、バンなど、ハヤブサは飛翔(ひしょう)力が強大なためガン、キジを、クマタカはノウサギがおもな獲物である。オオタカやクマタカでの鷹狩は、獲物が飛び立ったり、走り出したときに、風下から羽合わせる(飛ばす)と、獲物につかみかかっていっしょに降下着陸する。ハヤブサの場合は、獲物のいるところからかなり離れた地点で、上げ鷹(空中高く飛ばす)を行い、呼び子で誘導しながら獲物に接近させ、獲物の飛び立ったところを風下からとらえさせるもので、獲物を目がけて高空から真っ逆さまに飛びかかって獲物をけ落とす。深追いを防止するため脚に長忍縄(おきなわ)をつけて放すこともある。獲物の発見や追い立ては勢子(せこ)やイヌ(お鷹犬)による。獲物をとらえると、丸上げ(獲物を羽交いにして心臓を取り出して鷹に与える)するが、獲物を傷つけずにおきたいときは、餌合子(えごうし)(餌箱)から肉片を出して与える。

[白井邦彦]

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改訂新版 世界大百科事典 「鷹狩」の意味・わかりやすい解説

鷹狩 (たかがり)

鷹野,放鷹(ほうよう)ともいう。猛禽類のタカ(オオタカハイタカツミ),ハヤブサ(ハヤブサ,コチョウゲンボウ),ワシ(イヌワシクマタカ)などを馴養して,これらに常食の鳥獣を捕捉させ,それを遣(つか)い手がとりあげる間接的な狩猟法である。猟犬のように獲物を狩人の手元に持ち帰ることはない。猛禽類の生態,習性は種類によって異なり,捕獲の時季によっても馴養に差異がある(コラム参照)。

 鷹狩は古来世界の各地で行われ,古代エジプト,アッシリア,ペルシアなどで行われていたことは明らかであり,アッシリアのサルゴン2世(在位,前721-前705)の建てたコルサバード市の浮彫にも鷹狩があらわれている。ギリシア・ローマ人の社会でも行われたことはアリストテレス,大プリニウスその他により記録に残されている。前5~前4世紀のクテシアスによれば,起源はインドに発するという。ヨーロッパ大陸ではメロビング朝時代(5~8世紀)に貴族の間に流行し,カール大帝(在位768-814)も多くの鷹匠をつかっていた。十字軍のころますます盛んとなったが,ルイ15世(在位1715-74)のころからおとろえた。イギリスでも9世紀半ばから盛んとなり,17世紀後半から銃猟の流行のためおとろえた。西ヨーロッパでは主として貴族のスポーツの一つとして行われた。オリエント地方でも古代からひきつづいて中世にもおとろえず,インドでも同様でムガル帝国時代などとくに盛んであった。ミニアチュールにはよくタカを拳にすえた貴人の姿が描かれている。よいタカやハヤブサの産地はアイスランド,グリーンランド,ノルウェー,チュニジア,北アフリカ沿岸地方などで,これらはおもにヨーロッパに送られた。マルコ・ポーロはグルジア地方が世界最良のタカの産地であり,バダフシャーンからもよい種類を出すとしるし,元のフビライの大規模な鷹狩のようすを伝えている。それによると大ハーン(汗)は4頭のゾウの上に美しい小屋をかけて乗り,12羽の大きなタカをそばにおき,1万人の勢子(せこ)が従ったとある。東アジアでは狩りに用いるタカとしては遼東の〈海東青〉が名高く,その産地は間島(かんとう)地方から北朝鮮にかけてであり,高句麗,粛慎(しゆくしん),女真,朝鮮などは鷹狩を行うとともに,海東青を中国に貢進しており,その貢進に苦しんだ記録も少なくない。
執筆者: 日本には朝鮮半島を経由してもたらされた。記録では仁徳天皇43年に百済王族の酒君(さけのきみ)が献上したタカを天皇が百舌野(もずの)で遣ってキジを捕り,鷹甘部(たかかいべ)をおいたとあるのが最も古い(《日本書紀》)。また出土品には,関東地方に鷹・鷹匠(たかじよう)埴輪が数例あり,6~7世紀ごろのものとされている。令制では兵部省に主鷹司(放鷹司)がおかれ,天皇をはじめ貴族の遊戯として盛んに行われた。反面,仏教の教化につれ,殺生戒(せつしようかい)により禁令も出された。戦国時代以降,武家の趣向に合い大いに流行し,織田信長や徳川家康,また綱吉を除く歴代江戸幕府将軍に好まれ,諸大名にもマニアが多くいた。タカの供給・贈答,狩猟方,鷹匠鳥見(とりみ)・餌差(えさし)・犬牽(いぬひき)などの職制,鷹場(御拳場(おこぶしば),捉飼場(とりかいば))の設置など,諸制度が,またタカに関する作法も完備した。明治維新後は朝廷に継承され,侍従職の管理となったが,一部は民間に,猟場を補設して営業され,猟師に伝承された。現在ではタカの捕獲・飼養の制限により,わずかに鷹狩の技術が継承されているにすぎない。
鷹飼
執筆者:

鷹狩のコラム・用語解説

【タカの捕獲時季による馴養法】

巣鷹(すたか)
初夏,巣立ち前後の雛を捕らえてならす方法である。人になれやすく,野に逃げ帰ることが少ない。自然環境では捕らないほどの大物(ツル,ガンなど)を捕る。その反面,野生の獲物を捕るまで,訓練に手間がかかる。
網懸(あみかけ)
秋,野生の成鳥をおびきよせ,網,とりもちなどで捕らえる。その年生れのタカ(黄鷹(きだか))もすでに野で自活しているので,猟法は会得しているが,逃げやすく,野生に帰りやすい。

【タカの種類による馴養法】

両足に足革を付け,大緒(おおお)で架(ほこ)(とまり木)につなぐ。給餌せず体力,反抗を弱め,夜目のきかぬことを利用して,闇中に人の拳(こぶし)にとまること,人の手より餌を食うことを救え,しだいに明るくして,日中人馬や周囲の環境になれさせ,招餌(おきえ)につられて,人の拳に帰ることを教える。飛行逃走,反抗を制限した鳥獣を用いて,獲物を襲い捕る訓練をさせる。
オオタカ
大はツル,ハクチョウからカモ,バン,キジ,ウサギまで,獲物は広範囲にわたり,日本の気候や山間,田野,湖沼などの起伏に富んだ地勢に最も適し,遣うのに大きさも適当で,追い出した獲物に,カタパルトのように,拳より初速をつけてタイミングよく投げつけ,立ちあがりのおそいところに羽合わせて捕る。武家に最も好まれた。
ハイタカ,ツミ
オオタカによく似た体形で,より小さく,獲物も小さい。馴養はよりむつかしい。ヒバリ,ウズラなどの小鷹狩に用いる。
ハヤブサ
速度があり,空中にて獲物に激突して落として捕る。平原,干潟周辺などの広い空間で獲物を捕るに適しており,人になれやすい。したがって野生を失いペット化しやすいので,狩りをしないときはフード(頭巾)で目隠しをする。上げ鷹猟と称して,いったん空高く旋回させておき,獲物を空中へ追いあげて捕らせる。
イヌワシ,クマタカ
ワシの類で大きく,敏捷性に欠けるが,その体力で,タヌキ,キツネ,ウサギ,キジなどを捕らせる。高みより低地の獣をねらい羽合わせるので,空中捕捉の楽しみは少ない。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「鷹狩」の意味・わかりやすい解説

鷹狩【たかがり】

鷹を馴養(飼い慣らす)して鳥獣を捕捉させ,それをとりあげる間接的な狩猟法。鷹狩で用いられる猛禽(もうきん)類はタカ(オオタカ,ハイタカ,ツミ),ハヤブサ(ハヤブサ,コチョウ,ゲンボウ),ワシ(イヌワシ,クマタカ)などと種類は多い。したがって,馴養の方法,時期などに差がある。捕獲の方法は,初夏に巣立ちする直前の雛(ひな)を捕らえて馴らす方法と,秋に野生の成鳥を網やとりもちなどで捕らえて馴らす方法の2種がある。初めは餌(えさ)を与えないで,体力・反抗力を弱めさせ,人の手から餌をもらうことを教える。 鷹狩は昔から世界各地で行われている。古くはアッシリアのサルゴン2世〔在位,前721-前705〕の時代の浮彫りに,また,古代ギリシアのアリストテレス〔前384-前322〕の著作に確認することができる。ヨーロッパ中世のメロビング朝(5−8世紀)の貴族の間でも大流行した,という記録がある。日本には朝鮮半島を経由して伝わり,古くは《日本書紀》に鷹甘部(たかかいべ)をおいたという記録がある。また,鷹匠(たかじょう)の埴輪(はにわ)も多く出土しており,6−7世紀に盛んであったことが確認されている。天皇・貴族の間で野外娯楽として楽しまれたが,戦国時代以降は武士の間で人気を博した。今日ではタカの捕獲・飼育が制限されているため,鷹狩の技術は細々と継承されているにすぎない。
→関連項目宇太野オオタカ狩猟生類憐みの令鷹場東金街道中原道

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鷹狩」の意味・わかりやすい解説

鷹狩
たかがり
falconry

狩猟の一種。鷹を放って野鳥などを捕える方法。アジア大陸に起源があるといわれ,中国では前 2000年頃,メソポタミアでは前 1200年頃から行われていた。日本でも古くから行われ,『日本書紀』の仁徳天皇の条に鷹甘部 (たかかいべ) が設置され,鷹の飼養がなされたとある。また6世紀頃の埴輪人物像に鷹匠の像が数例発見されている。平安時代以降は,天皇,貴族をはじめ,武家の間でも練武を兼ねて盛んに行われた。天皇の鷹狩は野行幸 (ののみゆき) ,その鷹場は禁野 (しめの) といわれ,一般人の立入りが禁じられた。その好むところによってオオタカ,ハイタカなど各種の鷹を用い,鷹狩の際の装束も種々あった。明治以降は衰退。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鷹狩」の解説

鷹狩
たかがり

放鷹(ほうよう)・鷹野(たかの)とも。飼養した鷹を用いて鳥獣を捕らえる狩猟の一形態。使用する猛禽類を総称して鷹といい,実際にはオオタカ・ツミ・クマワシ・ハヤブサなどが用いられた。起源は明らかではないが,5世紀頃には広く普及し天皇の大権と結びついた。以後,為政者の特権として位置づけられ,武家社会のもとでも盛んに行われた。とくに近世には盛んで,幕府や藩では制度化され,鷹場を設置して遊楽の一つとして重視した。

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世界大百科事典(旧版)内の鷹狩の言及

【海東青】より

…モンゴル地方で鷹狩りや通信に用いられる隼(はやぶさ)の古称。海東青鶻(こつ)ともいう。…

【狩装束】より

…また狩の御衣(おんぞ)ともいった。中世以後,狩衣が一般の服装になったため,とくに鷹狩や武家の狩猟の装束をいうこともあった。鷹狩など中古の装束では,狩衣,腹纏(はらまき),小手(こて),行縢(むかばき),草鞋(わらぐつ)などからなり,武家の狩猟では直垂(ひたたれ)に行縢をつけ野太刀,綾藺笠(あやいがさ)の装束をさした。…

【狩猟】より

…鷹は貴人の専用であって早くから飼養・訓練の流儀がくふうされ,それぞれに伝書が成立したほか,その捕獲・飼養・訓練を職とする人々が存在した。鷹狩その他貴人の狩猟区域が画定され,民衆に対して禁猟地となったのは中世以来のことで,近世の幕藩体制下でこの組織は強化されるとともに,銃砲を主とする狩猟用具の所持・使用も大きく制限された。将軍徳川綱吉の発したいわゆる〈生類憐みの令〉などはその一例である。…

【生類憐みの令】より

… 鷹制度は,綱吉将軍就任直後から縮減されてきたが,諸大名にもすでに同様の動きがあり,むしろ幕府鷹制度廃止のおそさが目につく。天皇家を頂点とする贈答儀礼体系の一環として,将軍家鷹狩獲物の天皇への献上,諸大名への鷹および獲物の下賜,大名家から将軍家への鷹貢進等があって,廃止しにくかったわけで,それだけにこの時点での政策の一段の強化をみることができる。放鷹のための野鳥保護,したがって農民の害鳥獣対策規制が,そこで後退したことは善政と意識されたが,反面で野鳥獣を憐みの対象とすることで,在村鉄砲の統制が強化された。…

【タカ(鷹)】より

…しかし,タカとワシは分類学上の区別ではなく,またクマタカのように名まえはタカだが,実際はワシである例もある。鷹狩につかわれる鳥は,主としてタカとハヤブサ類で,まれにワシであることもある。約220種あるタカ科Accipitridaeの鳥は,形態と生活様式から約10の分類群に分けられる。…

【鷹匠】より

…放鷹(ほうよう)(鷹狩)に使う鷹の飼育・訓練を担当する人,江戸幕府・諸藩の職制。放鷹の慣習の日本への伝播は4世紀の中ごろといわれているが,このさい鷹匠も専門の技術職として成立したと考えられる。…

※「鷹狩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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