日本大百科全書(ニッポニカ) 「福島藩」の意味・わかりやすい解説
福島藩
ふくしまはん
陸奥(むつ)国福島(福島市)周辺を領有した藩。この地は初め会津領、1601年(慶長6)出羽(でわ)国米沢(よねざわ)領、64年(寛文4)幕領、79年(延宝7)大和(やまと)国(奈良県)郡山(こおりやま)から本多忠国(ほんだただくに)が15万石で就封し、初めて福島藩が成立した。1686年(貞享3)堀田正仲(ほったまさなか)が山形から10万石で入部、正仲のあと正虎(まさとら)と続いたが、1700年(元禄13)ふたたび山形へ移封し三たび幕領となった。1703年12月信濃(しなの)国(長野県)坂木(さかき)から板倉重寛(いたくらしげひろ)が3万石で就封し、板倉福島藩が成立した。小藩ながら譜代(ふだい)の名門、その領域は当初信夫(しのぶ)郡のうち23か村、1万0900石余、同伊達(だて)郡のうち8か村7000石余、上総(かずさ)国(千葉県)山辺(やまべ)郡のうち2900石余、三河国(愛知県)幡豆(はず)郡のうち1か村400石余であった。初代重寛から勝達(かつさと)まで12代160年間支配した。重寛から3代勝里までに福島城の修築および城下町の整備がなされた。阿武隈(あぶくま)川の舟運があり、福島河岸には米沢・会津藩の米蔵が立ち並び、城下は養蚕が行われ、生糸、紅花(べにばな)などの商品取引が活発で、上方(かみがた)、近江(おうみ)商人の進出が目だった。1788年(天明8)奥羽松前巡見使に随行した地理学者古川古松軒(こしょうけん)は、『東遊雑記』のなかで、福島城下を「町並も大概(たいがい)宜(よろ)しく、田畑も開け風土よく見ゆるなり」と評している。しかし藩財政は窮乏の一途をたどった。1868年(慶応4)戊辰(ぼしん)戦争では、官軍参謀世良修蔵(せらしゅうぞう)の暗殺事件が発生するなどあって、福島藩は奥羽越列藩同盟に加わって西軍に抗した。戦後藩主勝達は福島城付1万6000石を没収され、かわって会津大沼郡のうち1万7000石を与えられたが、1869年(明治2)三河国の旧領2万8000石(重原(しげはら)藩)に移封された。
[誉田 宏]
『福島市教育委員会編『福島市史 2、3』(1972、73・福島市)』