日本歴史地名大系 「松元町」の解説 松元町まつもとちよう 鹿児島県:日置郡松元町面積:五一・〇五平方キロ薩摩半島のほぼ中央部に位置し、北は伊集院(いじゆういん)町、東は鹿児島市、南から西は吹上(ふきあげ)町・日吉(ひよし)町に接する。半島の屋根部で錦江(きんこう)湾と東シナ海への両斜面を有する分水嶺地帯に立地する。春山の八の久保(はるやまのはちのくぼ)(三九一・七メートル)を最高峰とし、標高約一五〇―二〇〇メートルのシラス台地およびその浸食谷からなり、耕地と集落は神之(かみの)川水系の上谷口(かみたにぐち)川・石谷(いしだに)川・福山(ふくやま)川、永吉(ながよし)川の支流の永田(ながた)川などの流域に開けた沖積平地および台地の縁辺部に所在する。古い遺跡は多いが、平野が少ないため弥生時代以降の遺跡が少ない。旧石器時代の仁田尾(にたお)・堀(はぜぼり)・前山(まえやま)・前原(まえばる)などの遺跡が石谷周辺の台地端に密集している。とくに仁田尾遺跡は九州におけるナイフ形石器文化と細石器文化の有数の大遺跡として知られる。前原遺跡では縄文時代早期の住居跡や集石など定住集落の跡が見つかっている。縄文前期から後期にかけての遺跡も点々と存在しているが、定着を示すような遺跡は少ない。縄文晩期の遺跡もかなり見つかっているが、この時期も生活の跡ははっきりしない。弥生前期の遺跡は直木の東昌寺(なおきのとうしようじ)遺跡がある。農耕文化が入っているが、規模は大きくならなかったようである。古墳時代になっても大きな集落は造られなかった。古代律令制下では日置郡に属したと思われるが、詳細は不明。中世には伊集院に含まれた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by