松山・松山郷(読み)まつやま・まつやまごう

日本歴史地名大系 「松山・松山郷」の解説

松山・松山郷
まつやま・まつやまごう

日向国諸県もろかた郡に属し、西を大田尾おおたお(菱田川)、東を安楽あんらく川が流れ、北に飯盛いいもり(宮田山)、南にきり岳がそびえる。東西に細長く延びた台地上に広がる。

〔中世〕

救二くに(救仁院)内で、室町時代には現大字新橋しんばしに松山城(松尾城)が築かれていることから、中世の松山は同城辺りを中心とする地域であったと考えられる。文明六年(一四七四)の行脚僧雑録(旧記雑録)では新納氏分として松山がみえる。新納氏系図では応永二〇年(一四一三)新納忠臣(久臣)の代に松山城を手のうちに入れるとあるので、同氏領となったのはこの頃であろう。天文三年(一五三四)・同四年などに新納氏と豊州家島津氏・北郷氏の間で争奪が繰返されたが(「西藩野史」「島津国史」など)、同七年七月二三日豊州家島津氏らの兵に攻略され、同氏の手中に帰した(「島津国史」など)。永禄二年(一五五九)豊州家の家臣平山越後守忠智が松山城に配された。だが四月一四日忠智は志布志しぶしに赴く途中で肝付兼続軍に遭遇し戦死(同書)、同月一六日松山城は肝付勢により落された(「平山氏系図」旧記雑録)。ただし北郷時久日記(同書)に永禄五年四月五日、「松山城自肝付忍入取」とみえるので、この間に豊州家側の巻返しがあったものと思われる。元亀四年(一五七三)一月六日、肝付氏と北郷氏との間で松山口において大規模な合戦が行われた(同日記など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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