松山町(読み)まつやままち

日本歴史地名大系 「松山町」の解説

松山町
まつやままち

[現在地名]東松山市松本町まつもとちよう一―二丁目・松山町一丁目・松山・本町ほんちよう一―二丁目・神明町しんめいちよう一―二丁目・箭弓町やきゆうちよう一―三丁目・材木町ざいもくちよう松葉町まつばちよう一―四丁目・日吉町ひよしちよう加美町かみちよう若松町わかまつちよう一丁目・幸町さいわいちよう和泉町いずみちよう御茶山町おちややまちよう六反町ろくたんちよう六軒町ろくけんちよう五領町ごりようちよう新宿町しんじゆくちよう山崎町やまざきちよう小松原町こまつばらちよう沢口町さわぐちちよう殿山町とのやまちよう

現市域の中央やや東寄り、東松山台地上にあり、北部・東部は市野いちの川低地、南部は都幾とき川低地によって区切られる。東は根小屋ねごや村・流川ながれかわ(現吉見町)、西は石橋いしばし村、羽尾はねお(現滑川町)、南は柏崎かしわざき村・野本のもと村、北はいちかわ村・たいら村・野田のだ村。古くから交通の要地で、中世には松山本郷とよばれていた。戦国期には、武蔵八王子・河越、岩付いわつき(現岩槻市)などと鉢形はちがた(現寄居町)や秩父地方・上野国方面とを結ぶ街道の宿駅、また東方に位置した松山城(現吉見町)の城下として発達し、町場も形成されていた。慶長五年(一六〇〇)松山城の廃城により、城下町としての性格は失われたが、引続き日光脇往還・川越秩父道の宿場町として賑いをみせ、江戸時代も比企郡域の商業・交通の中心地であった。

〔松山本郷〕

応永一六年(一四〇九)閏三月一五日の旦那売券(熊野那智大社文書)に「武蔵国松山内本郷」とみえ、大輔律師嫡弟大夫公等は重代相伝である当地などの紀州那智山旦那職を那智実報院に売渡している。「北条記」によると天文六年(一五三七)七月、北条氏綱は松山城を攻めるにあたって「町屋近辺在々所々、悉ク焼払」ったというから、この頃にはすでに当地に町場が形成されていたと考えられる。もっとも城の北西麓の現吉見よしみ根古屋ねごや地区、南西麓の同町山の根やまのね地区などが元来、同城下として発達した地で、これらの地でも商取引が行われていたが(天正九年九月三〇日「上田長則掟写」武州文書)、城下の町場として発展したのは古くからの宿場でもある当地であった。天文一五年の河越夜戦以降、松山城は北条氏の北関東攻略の拠点となる。永禄二年(一五五九)に作成された小田原衆所領役帳によると、北条氏重臣松田左馬助に松山筋(当地を含んでいると思われる)で五〇〇貫文の地が与えられている。ただし、松山本郷のうちで一三貫文が寄子給田として松山衆の吉村助五郎に、三六貫五〇〇文が諸足軽衆多米新左衛門の寄子衆に、二三貫五〇〇文が同じく諸足軽衆富島氏の寄子衆に、五貫文が玉縄衆吉田勘解由にそれぞれ与えられている。

永禄四年、上杉政虎(謙信)の関東攻めに乗じた上杉方の太田資正によって松山城は落ち(「北条記」など)、北条氏は奪回のため松山城を攻撃する。


松山町
まつやまちよう

[現在地名]大宇陀町大字万六まんろく出新いでしん拾生ひろう上新かみしん・中新・かみ上中かみなか上本かみほん上茶かみちや・下茶・下本・下中・下出口しもでぐち小出口こいでぐち

元和元年(一六一五)織田氏の宇陀郡入部に伴い旧秋山あきやま(一一六・二三七石、文禄検地では秋山城町分)、旧城屋しろや(七四・三三石、文禄検地では城屋敷)を中心に、城山の西麓街道に沿い、宇陀川を挟む一帯に城下町が形成された。おもに「うたの市」(のちの古市場村。現菟田野町大字古市場)から商人らが寄せられ、新しい町は松山町と改めている。

松山藩については、慶長六年(一六〇一)福島高晴(正頼)が伊勢国長島ながしまから入封し、宇陀郡下で三万一千七一七石余を領したのに始まる。高晴は福島正則の弟で、豊臣秀吉に仕え、文禄三年(一五九四)万石の列に加わり、尾張国知多ちた郡の郡代もつとめた。関ヶ原戦には東軍に荷担、伊勢国桑名くわな城攻略の功による。しかし、領内でわがままな振舞も多く、家臣から再三幕府に訴えられたらしく、元和元年駿府すんぷで、奉行彦坂光政に断りなく訴人を捕らえようとしてとがめられ、伊勢国山田に蟄居を命ぜられ、所領を没収された。

ついで織田信雄(信長の次男)が豊臣氏の滅んだ元和元年七月、徳川家康から大和国宇陀郡と上野国のうち甘楽かんら多胡たこ碓氷うすい三郡で五万石が与えられた。信雄は京都に住み、松山城へは重臣の生駒範親が入り、上野国甘楽郡小幡おばた(二万石)は四男信良に分与された。寛永三年(一六二六)信良は父に先立って没し、嗣子百介(信昌)が継いだ。同七年信雄が没し、その跡は信雄の五男高長が継ぎ二代藩主となる。


松山町
まつやままち

面積:四二・七〇平方キロ

飽海郡の南東部に位置し、最上川が庄内平野に抜ける喉頭部から同川支流の相沢あいさわ川左岸まで、最上川右岸沿いに広がる山麓の町。北と東は平田ひらた町、南は東田川郡立川たちかわ町と最上郡戸沢とざわ村、西は東田川郡余目あまるめ町に接し、町の西境を国道三四五号が南北に通る。町内に一三ヵ所の縄文時代の遺跡が散在。古代は飽海部大原おおはら(和名抄)に属していたと考えられる。また「延喜式」諸国駅伝馬条にある出羽国の佐芸さき駅は現最上郡鮭川さけがわ真木まきに、飽海駅は現平田町飛鳥あすかに比定され、佐芸と飽海の間は当地西辺を通る最上川の舟運で結ばれていたと推定される。曹洞宗総光そうこう寺は至徳元年(一三八四)月庵によって開かれ、中山なかやま館主佐藤正信の帰依をうけて栄えた。天文元年(一五三二)庄内地方の土豪の戦乱で破却されたが(「来迎寺年代記」伊藤文書)、その後再興された。


松山町
まつやまちよう

面積:四九・八一平方キロ

曾於郡のほぼ中央に位置し、東は志布志しぶし町、北は末吉すえよし町、西は大隅町、南は有明ありあけ町と接する。西端を菱田ひしだ川が、東部を尾野見おのみ川がともに南へ流れ、北部に宮田みやた(五二〇・三メートル)、南部にきり(四〇八・三メートル)がそびえる。町はこれらに囲まれた台地上に東西に細長く広がる。

町域の遺跡は菱田川松尾まつお川などの流域の台地上に立地している。とくに縄文時代の遺跡が多く確認され、早期から晩期までの遺物がみられる。新橋の宇都谷しんばしのうとだに遺跡、尾野見の中村なかむら遺跡、泰野の内ノ野たいののうちののC遺跡などで縄文早期の、新橋の砂田すなだD遺跡・ひえさこC遺跡などで前期の、尾野見の井手段いでだんIII遺跡や黒石崎くろいしざき遺跡では後期の遺物が出土している。


松山町
まつやまちよう

[現在地名]東区粉川こかわ町・神崎かんざき

粉川町の西に南北に延びる内骨屋町うちほねやまち筋西側の横町。初発言上候帳面写によると山城伏見ふしみから移った町でもと西聚楽にしじゆらく町と称したというが、大坂町之内町名替り候写はもと松屋町北裏まつやまちきたうら町であったとする。松屋町筋は当町の一筋西。明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図には松屋町北裏町とあり、貞享四年(一六八七)新撰増補大坂大絵図に松山町がみえる。町名改称は延宝九年(一六八一)(元禄元年増補大坂図)。南部に東西のたぬき坂がある(文化三年増修改正摂州大阪地図・大阪府全志)


松山町
まつやままち

面積:三〇・一九平方キロ

大崎おおさき平野南部にあり、南半は大松沢鹿島台おおまつざわかしまだい丘陵が起伏し、鹿島台町との境に高寺たかてら(一四〇・一メートル)がある。北半は鳴瀬なるせ川に沿った一面の水田地帯。東流する鳴瀬川が北東部で大きく南に曲がり、その北は古川市と遠田とおだ小牛田こごた町、北東部対岸は遠田郡南郷なんごう町、東と南は鹿島台町、西南部は黒川郡大郷おおさと町、西は三本木さんぼんぎ町。町の総面積の四〇パーセントが耕地、その九二パーセントは水田でササニシキを主とする米単作地帯。


松山町
まつやまちよう

[現在地名]小樽市長橋ながはし四―五丁目

大正四年(一九一五)の小樽区の町名改正に伴い手宮裏てみやうら町より分立、松山町が成立。長橋町の北西にある。大正九年の世帯数二六・人口一五七(小樽市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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