朝日日本歴史人物事典 「松平忠恒」の解説
松平忠恒
生年:享保5(1720)
江戸中期の若年寄。延享4(1747)年7月,陸奥国桑折(福島県桑折町)から上野国篠塚(群馬県篠塚町)に転封。寛延1(1748)年8月,同国上里見(同榛名町)に陣屋を移す。閏10月若年寄に昇進し,宝暦12(1762)年12月勝手掛に。以後,勝手掛老中松平武元とのコンビで幕府の財政政策を主導。明和4(1767)年閏9月,同国小幡(同甘楽町)に転封。なお,オランダ商館長ティチングによれば,同6年忠恒が,船舶建造を許可し日本人の海外渡航を容易にすることを提議したというが,すでに忠恒は死亡しており,その真偽は不明。当該期の外国人の著述に現れる数少ない人物のひとりである。<参考文献>『ティチング日本風俗図誌』(『新異国叢書』7巻)
(安藤優一郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報