松平忠恒(読み)まつだいら・ただつね

朝日日本歴史人物事典 「松平忠恒」の解説

松平忠恒

没年明和5.11.9(1768.12.17)
生年享保5(1720)
江戸中期の若年寄。延享4(1747)年7月,陸奥国桑折(福島県桑折町)から上野篠塚(群馬県篠塚町)に転封。寛延1(1748)年8月,同国上里見(同榛名町)に陣屋を移す。閏10月若年寄に昇進し,宝暦12(1762)年12月勝手掛に。以後,勝手掛老中松平武元とのコンビ幕府財政政策主導。明和4(1767)年閏9月,同国小幡(同甘楽町)に転封。なお,オランダ商館長ティチングによれば,同6年忠恒が,船舶建造を許可し日本人の海外渡航を容易にすることを提議したというが,すでに忠恒は死亡しており,その真偽は不明。当該期の外国人の著述に現れる数少ない人物のひとりである。<参考文献>『ティチング日本風俗図誌』(『新異国叢書』7巻)

(安藤優一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松平忠恒」の解説

松平忠恒 まつだいら-ただつね

1720-1768 江戸時代中期の大名
享保(きょうほう)5年生まれ。松平忠暁(ただあきら)の子。享保21年陸奥(むつ)桑折(こおり)藩(福島県)藩主となる。上野(こうずけ)(群馬県)篠塚(しのづか)藩,上里見(かみさとみ)藩をへて,明和4年小幡(おばた)藩主松平(奥平)家初代。2万石。奏者番兼寺社奉行をつとめ,寛延元年若年寄となる。明和5年11月9日死去。49歳。通称は定太郎。摂津守。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android