日本大百科全書(ニッポニカ) 「ワトー」の意味・わかりやすい解説
ワトー
わとー
Jean Antoine Watteau
(1684―1721)
フランス18世紀、ロココ美術を代表する画家。バランシェンヌに生まれる(10月10日受洗)。生地で画家の修業をしたあと、1702年パリに出て、宗教画やオランダの絵画のコピーの仕事をし、やがて03年から07、08年ごろまでクロード・ジローのもとで助手をつとめる。ジローは当時流行したイタリア喜劇を描く芝居絵の画家であり、その彼に学んだことは、のちにワトーの画風や主題の選択に大きな影響を与えた。ジローのもとを離れてから、当時リュクサンブール宮の美術品の管理をしていたクロード・オードラン3世のもとに寄寓(きぐう)し、彼の装飾画を手伝うが、このとき以降、ワトーはシノワズリー装飾など、ロココの装飾形式に先鞭(せんべん)をつける。その一方、リュクサンブール宮の王室美術品、レオナルド・ダ・ビンチやベネチア派、ルーベンスなどに学び、構想や技法を養う。10年、故郷に一時帰国するが、この旅行のとき見聞した軍隊の野営などのテーマを扱っている。パリに帰ったあと、多くの美術愛好家たちの知遇を得て、彼らのために肖像を描き、あるいは風景描写の探求を試みている。彼は病身で移り気なため、これらの愛好家たちの館(やかた)に転々と寄寓したが、美術コレクターとして有名なクロザPierre Crozat(1665―1740)のノジャン・シュル・マルヌの館を自由に使う許しを得、クロザの素描コレクションに親しんだ。
1717年、早くからアカデミーに求められていた会員資格候補作品『シテール島の巡礼』(ルーブル美術館)を提出、アカデミーは「雅宴(フェート・ガラント)の画家」としてワトーを受け入れる。このジャンルは、やがてアントアーヌ・パテール、ランクレたち、彼の弟子や追随者によって多く描かれ、ロココ美術の代表的なテーマとなるが、ワトーは野外の風景の中に男女たちの語らい、音楽、愛を描き、舞台的・夢幻的な情景を描いたという点でも、人体と自然を一つの夢想的な調和によって描いた点でも、真にロココ的なものに先駆する。と同時に、ロココを代表したのは彼の「雅宴」の一群の作品であった。彼は胸を患っていたため、19年イギリスに渡るが治療は成功せず、20年夏パリに帰り、画商ジェルサンのもとに寄寓し、『ジェルサンの看板』(ベルリン、シャルロッテンブルク宮)を描いている。白い道化服の『ピエロ』(従来『ジル』と名づけられていた作品。ルーブル美術館)も、彼の最後の時期に属する作品であり、前者は、室内を描くレアリスムと華麗な人物や衣装の配置の調和で、後者は、そのきわめて純粋な人物描写で、ワトー最後の傑作である。21年7月26日ノジャン・シュル・マルヌの館で没。
37歳に満たぬ短い生涯であったが、ワトーはかなり多くの作品を制作し、しかもその大半は最後の数年に集中している。友人ジャン・ド・ジュリエンヌが画家の没後、装飾模様、デッサン、油彩を四冊の版画集として刊行しているが、現存の作品はかならずしも多くなく、大半はこの版画集によって知られるにすぎない。デッサンは、ルーブル、大英博物館、ストックホルム国立美術館に大量に保存され、サンギーヌによるさまざまな女性の姿態がとらえられている。
[中山公男]
『中山公男解説『世界美術全集17 ワトー』(1979・集英社)』▽『中山公男編著『世界の素描12 ワトー』(1979・講談社)』