江戸幕府の最高裁判所ともいうべき司法機関。将軍,老中の施政の諮問機関の一種の役割をも兼ねた。その存在は幕府創設後かなり早くから認められるが,1635年(寛永12)に規則が初めて成文化された。構成員の中心は寺社,町,勘定の三奉行で,これに大目付,目付が審理に加わり,勘定所からの出向者を主とする留役(とめやく)(書記)が実務を担当した。初期には老中も出席したが,1660年代(寛文年間)ごろに寄合(会議)が式日(しきじつ),立合,内寄合(うちよりあい)の3種に分かれて,老中は式日にのみ出座することになり,さらに1720年(享保5)からは月1回出座となった。また側(そば)用人,側衆あるいは江戸出府中の所司代や遠国(おんごく)奉行が評席に参列することもあった。このほか右筆,目安(めやす)(訴状)読みの儒者,勘定衆,徒(かち)目付,台所方,料理方,坊主,小人目付,評定所留守居,町与力,町同心,石出帯刀(いしでたてわき)(牢役人),町年寄が詰めた。寄合は初期には老臣邸で催されたが,1657年(明暦3)の大火後,竜(辰)の口(現,丸の内1丁目)の伝奏(てんそう)(公武の連絡を担当する公家)屋敷が焼け残ったのでこれを用い,その後その敷地内を仕切り,評定所を建てたという。
寄合は1635年の規定では式日のみで,毎月2,12,22日であったが,1660年代に老中の出座する式日は4,12,22日,三奉行で審理する立合は6,14,25日,三奉行がそれぞれ月番の役宅で審理する内寄合が9,18,27日となった。これらは1712年(正徳2)から式日が2,11,21日,立合が4,13,25日,また内寄合は21年から6,18,27日となった。式日には諸役人は審理の公正を誓う起請文(きしようもん)を提出したが,これは《貞永式目》発布の際の鎌倉幕府評定衆の起請文にならったものである。式日には三奉行の立合で落着しない難事件を老中出座で審理するのが当初の目的であったようであるが,1720年にはとくに式日とて公事を撰出することを禁じた。しかしこのころになると評定所の審理が済口(すみくち)=民事の和解事件に占められるようになったので,翌年には式日に若干入り組んだ公事を撰出するよう変更された。評定所一座の勤務時間は朝卯半刻(午前7時ごろ)から夕申刻(午後4時ごろ)までであった。評定所で取り扱う事件は,公事出入(民事)では原告,被告の支配が異なる事件で,寺社および寺社領,関八州以外の私領からの出訴は月番の寺社奉行が目安裏判をして評定所へ送り,江戸町中からの目安には町奉行が,関八州の幕領,私領および関八州外の幕領からの出訴は勘定奉行が目安裏判をすることになっていた。詮議事(刑事)では,とくに重要な事件や複雑な事件,あるいは上級武士にかかわる事件を取り扱った。したがって現在の上級審とは,本質的に機能が異なっている。
評定所の機構はこのように17世紀後半にほぼととのったが,その後ゆるみはじめ,17世紀末から18世紀初頭(元禄~正徳期)にかけて審理の遅滞,判決の不公正化のいちじるしかった事例が,新井白石《折たく柴の記》に詳しく記してある。白石はその改善に努力し,1712年,16年に評定所へ詳細にわたる訓令を発したが,享保改革において将軍吉宗はその改革に強い関心をよせ,強力にこれを推進した。《公事方御定書》の編纂はその成果の集成と認めてよかろう。寛政改革においても,その機構の振粛に努めている。
1868年(明治1)5月19日,明治政府は江戸に鎮台をおき,寺社,町,勘定の三奉行を廃止したから,当然評定所もこの後はありえないが,おそらくこれより前,江戸幕府の衰亡とともにその機能を消滅させていたと考えられる。
執筆者:辻 達也
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江戸幕府の中央機関。三奉行(ぶぎょう)(寺社奉行・町奉行・勘定(かんじょう)奉行)が合議によって事件を裁決し、かつ老中の司法上の諮問に答える幕府の最高司法機関。江戸城和田倉(わだくら)門外の竜ノ口(たつのくち)にあった。2代将軍秀忠(ひでただ)のころからあったと考えられるが、制度的に整備されたのは3代家光(いえみつ)の1635年(寛永12)である。三奉行によって構成される評定所一座と、勘定組頭など三奉行所から派遣されて実務を担当する評定所留役(とめやく)からなっていた。寄合(よりあい)(評定)は毎月2、11、21日の式日(しきじつ)と4、13、25日の立合(たちあい)の6回行われた。式日には三度に一度は老中が出席したほか、大目付(おおめつけ)・目付や側用人(そばようにん)など将軍の側近も臨席したが、一座以外には評議権はなかった。裁決は多数決によったが、決着がつかないときはそれぞれの意見を書いて老中の裁決にゆだねた。評定にかかる事件は、民事(出入物(でいりもの))では原告・被告を管轄する奉行が異なる場合であり、刑事(詮議物(せんぎもの))では重要事件と上級武士が被疑者である場合であった。諮問を受けるのは、各奉行や大名から老中に呈出された仕置伺(しおきうかがい)で、一座は書面審査によって判決を老中に答申した。評定所が作成した記録類に「裁許留(さいきょどめ)」「御仕置例類集(おしおきれいるいしゅう)」「御触書集成(おふれがきしゅうせい)」などがある。
[高木昭作]
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江戸幕府の最高司法機関。1635年(寛永12)制度的に確立。江戸城竜の口にあった。構成員の中心は寺社・町・勘定の三奉行の評定所一座で,各自が専決できない重大事件や,管轄のまたがる訴訟などを各月3回の式日または立合(たちあい)に集会して,合議・裁判した。側用人・大目付・目付なども出席。京都所司代・大坂城代・遠国奉行らは江戸出府中,事務見習いのため傍聴した。「評定所法式」(「評定所掛看板」「評定所張紙」)は江戸幕府の基本法とされた。
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…《公事方御定書》(1742)の立法史料集。《公事方御定書》編集のときの諸記録,文書類は評定所に数十冊存したが,年を経て散逸するおそれがあり,また評定所一座が老中から《公事方御定書》各条の意味について下問されたとき,その立法過程にさかのぼって答申するためにも整理・編集する必要があった。発議したのは評定所の吏員で,1754年(宝暦4)老中堀田正亮の下命があり,三奉行主宰で着手された。…
※「評定所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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