松田源治(読み)マツダ ゲンジ

20世紀日本人名事典 「松田源治」の解説

松田 源治
マツダ ゲンジ

大正・昭和期の政治家 文相;拓務相;衆院副議長;民政党幹事長



生年
明治8年10月4日(1875年)

没年
昭和11(1936)年2月1日

出生地
大分県宇佐郡柳ケ浦

学歴〔年〕
東京法学院卒,日本法律学校(現・日本大学)〔明治29年〕卒

主な受賞名〔年〕
勲一等

経歴
明治30年司法官試補、福岡、佐賀各区裁判所検事代理を経て、31年弁護士開業。41年以来、衆院議員当選9回、政友会に属し、会幹事、大正9年内務省参事官、11年衆院副議長を歴任。13年床次竹二郎らと政友本党結成、昭和2年民政党に合流し、同党総務、幹事長を務める。4年浜口内閣の拓務相、9年岡田内閣の文相となった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「松田源治」の解説

松田 源治
マツダ ゲンジ


肩書
文相,拓務相,衆院副議長,民政党幹事長

生年月日
明治8年10月4日

出生地
大分県宇佐郡柳ケ浦

学歴
東京法学院卒 日本法律学校(現・日本大学)〔明治29年〕卒

経歴
明治30年司法官試補、福岡、佐賀各区裁判所検事代理を経て、31年弁護士開業。41年以来、衆院議員当選9回、政友会に属し、会幹事、大正9年内務省参事官、11年衆院副議長を歴任。13年床次竹二郎らと政友本党を結成、昭和2年民政党に合流し、同党総務、幹事長を務める。4年浜口内閣の拓務相、9年岡田内閣の文相となった。

受賞
勲一等

没年月日
昭和11年2月1日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松田源治」の解説

松田源治 まつだ-げんじ

1875-1936 明治-昭和時代前期の政治家。
明治8年10月4日生まれ。弁護士から,明治41年衆議院議員(当選9回,民政党)。大正11年衆議院副議長。昭和4年浜口内閣の拓務相。9年岡田内閣の文相に就任。翌年天皇機関説事件がおこり,軍部右翼圧力国体明徴訓令を発し,また,同年帝国美術院改組を発表。昭和11年2月1日死去。62歳。大分県出身。日本法律学校(現日大)卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「松田源治」の解説

松田 源治 (まつだ げんじ)

生年月日:1875年10月4日
大正時代;昭和時代の政治家;弁護士。衆議院副議長
1936年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松田源治の言及

【官展】より

…また27年から美術工芸の部が設けられている。
[松田改組と新文展]
 1935年5月,松田源治文相は帝国美術院の改組を発表,帝国美術院官制を制定した。これは帝国美術院を〈挙国一致の指導機関〉にして美術界をその統制下におくことを目的とし,新たに在野の有力作家を会員に加え,また従来の無鑑査出品を廃止し,新規定による更新などを内容としたものであった。…

【帝国美術院】より

…また帝展も日本画,洋画,彫刻の3部制で出発したが,27年に美術工芸部を加えた。35年の松田源治文相による改組は美術界に空前の混乱をもたらし,37年に帝国芸術院官制の制定をみることになる。官展【原田 実】。…

※「松田源治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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