翻訳|right wing
他の多くの政治的用語がそうであるように、右翼ということばも多義的であり、対立概念の左翼と同様、元来、相対的な意味しかもたないゆえに、厳密な定義を行うことは困難である。
右翼の語源は、18世紀末のフランス革命期の国民公会la Convention Nationale(1792~95)における議席の位置、つまり、議長席からみて左側に急進派(ジャコバン派)、中央に中間派(沼沢党、平原党)、そして右側に穏健派(ジロンド派)が席を占めたところに、その名の由来があるといわれている。
具体的な内外の政治状況のなかで、右翼の活動内容や機能の実態はさまざまに異なるが、現在では一般に、反共、反社会主義、反民主主義、保守的反動的国家主義、超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)のエートス(精神)やイデオロギーをもつ、ファッショ的集団ないし人物を意味する用語として理解されている。
[西田 毅]
19世紀前半のナポレオン没落後のヨーロッパに誕生したウィーン体制や、1848年のフランス・ドイツを中心に展開された「ヨーロッパ革命」とその後の反動勢力の復活、1871年のパリ・コミューン前後、ロシア第一革命(1905)に続く反動期――1906年から11年のP・A・ストルイピンによる反動支配の時代――などに、われわれは典型的な政治的反動ないし反革命の時代をみる。
そして、20世紀に入って、1920~30年代のヨーロッパやアジア、南アメリカ諸国において、さまざまな右翼団体が反共と全体主義政治秩序の形成の推進力となって横行し、日独伊を中心とした枢軸国のファシズム運動と結合して、全世界を第二次世界大戦のるつぼと化した歴史的経験は、いまだわれわれの記憶に生々しい。右翼運動すなわちファシズムというとらえ方はもちろん不可能であるが、ファシズムの全体状況のなかで、右翼団体がイデオロギーと運動の面で大きな役割を演じたことは否定できない。
[西田 毅]
まず、ファシズムについて簡単な定義を試みることにしよう。ファシズムは、典型的には、第一次世界大戦とロシア革命の成立に続く資本主義の全般的危機の時代に、ドイツ、イタリア、日本などの諸国に現れた政治支配体制であり、先進、後進両帝国主義諸国間の国際的対立と経済的危機――生産力の停滞、大量の失業者、物価の暴落など――に対して、その克服を実現せんとする労働組合その他の民主団体の社会改革や革命運動に敵対する勢力として台頭した。その支配の担い手は、右翼政治家、軍人、官僚、民間の右翼リーダーたちで構成され、展開される具体的なファシズム運動の形態は、その国の置かれている歴史的状況の違いによって異なる。たとえば、ワイマール共和制のドイツやイタリアのような強力な労働者政党、労働組合、農民組合を中心とする急進的労働運動が存在するところでは、軍事独裁によるファッショ政権の樹立は困難である。
それらの諸国では、大衆的なファシスト団体――ちなみに、ナチスは「国民社会主義ドイツ労働者党」Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparteiという党名からして、擬似的性格とはいえ、民衆的基盤に立脚していることを示していた――を結成して、それを足場にして、いわば既存の統治機構の外側からファッショ勢力が権力を獲得する、いわゆる「下から」の運動が展開された。他方、わが国のように、軍部や財閥、重臣、官僚勢力を中心とする「上から」の支配体制内部の編成替えによるファッショ化が進行していったところでは、支配層は民間の右翼やファシスト団体を一定期間利用するにはするが、国内のファッショ化が完成すると、もはや彼らは右翼団体の利用価値を認めず、資金援助を断ったり人的結合を解くなど排除の姿勢をとる。
次にファシズムのイデオロギー的特徴をアトランダムに列挙すれば、なによりもまず、議会制民主政治と複数政党制の否定、自由民主主義や共産主義、国際協調精神の排撃、そして積極的な実践綱領としては、自民族至上主義――アーリアン人種、北方ゲルマン人種、なかんずくドイツ民族の優秀性の強調、人種差別=ユダヤ人の迫害――、超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)や軍国主義的対外膨張論の鼓吹――日本の場合、八紘一宇(はっこういちう)の精神に基づく東亜新秩序の建設などにみられる――、全体主義的国家観に依拠した自由主義国家論の攻撃――政治の本質を「友・敵」理論においてとらえたナチスのイデオローグ、C・シュミットは、個人や社会に対する国家の優位の主張、すなわち全体主義原理を説き、戦争や内戦といった例外的状態にあって、国家の敵が何者であるかの決定を下す者が主権者たる国家の役割であると強調している――などが主要な特徴としてあげられよう。
アドルフ・ヒトラーのかの有名な『わが闘争』Mein Kampfには、大衆に対する徹底した消極的認識が展開されている。つまり、そこには「大衆は冷静な理性よりも感情に動かされやすい。しかもその感情はきわめて単純である。彼らの感情にはほとんど陰影(ニュアンス)がなく、ただ対立があるのみである」という認識があり、こうした情動的(エモーショナル)な大衆をもっぱら少数のエリートによって操作される対象とみなしたナチのリーダーたちは、大衆嚮導(きょうどう)の手段としての宣伝価値の重要性を強調したのであった。
要するに、大衆の創造的能力や能動性に対するきわめて強い不信感と、もっぱら政治(支配)の客体として無知な大衆をとらえる姿勢、すなわちエリート主義に基づく指導者原理がそこには露骨に出ている。そしてこのようなファシズム全般に共通してみられる思想的特徴に加えて、わが国の天皇制ファシズムに特有のイデオロギーとして、(1)家族(主義的)国家観=国家構成の基本原理としての家の強調、国家は一大家族であるという主張、(2)忠君愛国・忠孝一致の思想、(3)農本主義思想、(4)大アジア主義=アジア民族の「解放」とヨーロッパ帝国主義にかわって日本がアジアにおける支配のヘゲモニーを握らんとする考え方、などがあげられるであろう。
なお、ナチズムやイタリア・ファシズムの影響を受けてイギリスではO・モーズリーがイギリス・ファシスト同盟を結成し、フランスでは人民戦線Front populaireに対抗して、シャルル・モーラスのアクシオン・フランセーズや愛国青年同盟などの右翼団体が国民戦線Front Nationalを結成するなど、先進民主主義諸国にも右翼団体の活発な動きがみられた。
[西田 毅]
第二次世界大戦前のわが国のファシズムは天皇制ファシズムとよばれており、同時代の西欧世界におけるファシズムと比べて、その政治機構・運動・イデオロギーの面でさまざまな違いがある。もちろん、人権や民主主義の否定、暴力と戦争の賛美、反動・反革命の標榜(ひょうぼう)、傍若無人な対外侵略の鼓吹といった、およそ世界のファシズムに共通の属性は、太平洋戦争下のわが国のファシズム運動においても顕著にみられた。そしてそうした状況の創出の一翼を担ったのが、ほかならぬ右翼団体なのであった。
そこで、日本の右翼の思想性に注目しながら、ファシズム状況の進展と右翼運動のかかわりについて、より具体的に考察してみたい。
わが国の右翼運動には、1881年(明治14)に創立され、観念右翼の草分けといわれている玄洋社以来、伝統的な国粋派=日本主義派とよばれるグループと、「近代的」な国家社会主義派の二つの潮流があり、それらが、ときには観念右翼対組織右翼、「中核組織論対大衆組織論」、反議会主義対議会主義といったいくつかの対立を形づくった(木下半治著『右翼テロ』1960・法律文化社)。そしてそのいずれもが体制批判の姿勢と彼らなりの現状変革のプログラムを掲げていた。
この点については、明治維新後、新政府が最初に体験した反政府運動である西南戦争を契機として玄洋社が生まれたことや、のちに玄洋社三傑の一人といわれた頭山満(とうやまみつる)(1855―1944)は、西郷隆盛(たかもり)が征韓論に敗れて下野するや、征韓論派と気脈を通じて維新の新政府を非難し、朝鮮討伐の機運を盛り上げようとしたことなどを考えるとき、明治期の右翼運動のリーダーたちが抱いた「反体制」の原像や志士的人間像の輪郭が浮かび上がってくる。前原一誠(まえばらいっせい)の萩(はぎ)の乱(1876)に呼応した頭山らは、のちに武力蜂起(ほうき)から「言論実力を以(もっ)て秕政(ひせい)改善」に向かわんとした。かくして成立したのが玄洋社の前身である向陽社(1878年創立)であった。向陽社は約300余の塾生を擁して、土佐の立志社、熊本の相愛社らと並ぶ政社として名声を博し、植木枝盛(うえきえもり)ら中央の有力な自由民権派のリーダーを迎えて公開演説会を開いたという。玄洋社の掲げる「憲則」に「第一条皇室を敬戴(けいたい)す可(べ)し 第二条本国を愛重す可し 第三条人民の権利を固守す可し」とあるように、そこには初期自由民権運動と深い思想的つながりがあった。このような近代日本における右翼と左翼の同時的誕生、ならびに両派が共有する精神傾向、「民権」と「国権」のアンビバレンス・相互移譲性など、それが示唆するところの意味は大きい。その後、玄洋社から天佑侠(てんゆうきょう)(1894年=明治27創立)、黒竜会(こくりゅうかい)(1901年=明治34創立、社主内田良平(りょうへい))が生まれ、彼らが中心となって大アジア主義の実践活動を行った。黒竜会は1931年(昭和6)に「大日本生産党」と改称、さらに中心メンバーであった吉田益三(ますぞう)は、右翼団体の全国的組織化に乗り出し、36年には「全国愛国団体統一連盟」を結成した。こうした昭和初期の右翼組織の編成替えには一部労農大衆党や労働組合の支持や参加もあり、この時期には伝統的な観念右翼の「近代的」ファシズム化が顕著にみられた。
観念右翼とは別の本来の「近代的」ファシズム団体は、第一次世界大戦後の大正デモクラシーの時代に叢生(そうせい)する。すなわち、大戦後ヨーロッパの自由主義思潮の復活とドイツのワイマール・デモクラシーの勃興(ぼっこう)、それにロシア革命の成功といった国際的契機に刺激されて、国内では閥族打破、政党政治の確立、普通選挙制実施、日本共産党の結党(1922)という政治状況や、米騒動(1918)の発生、労働争議、小作争議の頻発といった社会状況が醸成された。そこで、外来のリベラリズムや社会主義に対抗して、こうした「赤化思想」を討伐し、国内の政治経済の腐敗を除去する「革新」政策を打ち出す右翼団体が相次いで結成された。こうしたなかで、老壮会(1918年創立)や猶存社(ゆうぞんしゃ)(1919年創立、北一輝(いっき)、大川周明(しゅうめい)、満川亀太郎(みつかわかめたろう)らが中心で、北の『日本改造法案大綱』が実践綱領となった)、行地社(こうちしゃ)(1924年創立、大川、満川、安岡正篤(まさひろ)らが中心)、神武会(じんむかい)(1932年創立、菊池武夫(たけお)、石原広一郎、河本大作らが中心)らの革新右翼、それに、高畠素之(たかばたけもとゆき)、上杉慎吉(しんきち)らの経綸学盟(けいりんがくめい)(1919年創立)のような国家社会主義派と国粋主義派の結合が実現した。ついで満州事変前後から二・二六事件当時にかけて現れた特徴は、民間の右翼と軍部勢力とくに青年将校との結び付きの強化や、テロリズム――血盟団事件、五・一五事件(1932)、神兵隊事件(1933)、永田事件(相沢事件、1935)から、最大規模のクーデター二・二六事件(1936)に至る一連の急進テロ――などの急進ファッショの活発な動きである。この時期は軍部がファシズム運動の推進母体となって、しだいに国政の中枢を占めるようになる。また二・二六事件以後、1937年の日中戦争の勃発、太平洋戦争への突入と敗戦に至る時期――それは日本ファシズムの完成期であると同時に崩壊に至る時期でもあった――においては、軍部が「上から」のファシズムの担い手となって、官僚・重臣などの半封建的勢力と独占資本およびブルジョア政党との間に不安定な連合支配体制が築き上げられた。そして、太平洋戦争に突入(1941)するころまでは、戦争熱をあおり、ファシズムの推進勢力として利用された民間の右翼団体も、この時期に入ると、すっかり体制内化して鎮静させられている。支配層によるコントロールの実態は、近衛(このえ)新体制運動(1940)や東条政権のときに顕著にみられる。第二次近衛内閣が組閣され新体制運動が推進されるや、挙国一致の政治体制樹立に向けてあらゆる既成政党の解散が要求された。その際、多数の右翼団体は政治団体たることをやめて文化団体ないし思想団体へと積極的に改組――たとえば、中野正剛(せいごう)の東方会は振東社に、石原莞爾(かんじ)が率いる東亜連盟協会は東亜連盟同志会に、大日本党は「やまとむすび」、大日本生産党は大日本一新会にというふうに――していった。そして、東条政権のときには、興亜連盟を結成(1941)して、あらゆる右翼団体を統合しようとした。しかし、このときには、東亜連盟や東方会、天野辰夫(たつお)の維新公論社らは東条の方針に強い反対の姿勢を示した。
[西田 毅]
太平洋戦争の敗北によって右翼はいったんは壊滅的な打撃を受けたが、1951~52年(昭和26~27)のサンフランシスコ講和会議から独立の前後にかけて、よみがえった。その後、60年安保改定阻止の国民運動の未曽有(みぞう)の高まりは右翼勢力を奮い立たせた。日米軍事同盟の破棄と議会制民主政治の擁護を求めて盛り上がった広範な民衆のエネルギーを妨害せんとして発揮された右翼の暴力は露骨を極めた。60年10月、山口二矢(おとや)によって白昼、三党首立会い演説会の壇場で最大野党の社会党委員長浅沼稲次郎が刺殺されるというショッキングな事件は、こうした異常な興奮に包まれた右翼テロのピークをなすものであった。また、この年12月には作家深沢七郎が書いた小説『風流夢譚(ふうりゅうむたん)』が『中央公論』に掲載されたことを右翼団体が問題視して中央公論社に押しかけた。さらに翌61年2月元大日本愛国党員小森一孝が、『風流夢譚』が皇室を冒涜(ぼうとく)したものであると憤激して、中央公論社社長の嶋中鵬二(しまなかほうじ)宅に侵入して同家の家政婦を刺殺して自首した。皇室と天皇制批判への言論表現の自由の問題に関しては、中央公論社が『思想の科学』の「天皇制特集号」(1962年1月号)を発売中止にするなど右翼や公安調査庁の動向に過敏になって自主規制する動きが目だった。岸政権の後を継いだ池田内閣は政治的対決を回避し、国内にみなぎる政治的興奮状態の鎮静に努めた。
続く佐藤内閣時代には、紀元節が「建国記念の日」と名を変えて復活(1967)、それに続いて68年には明治維新百年祭が挙行されて、神社関係者や右翼、一部財界人を活気づけた。そして70年11月には三島事件が発生した。「楯(たて)の会」代表の三島由紀夫(ゆきお)ら5名は陸上自衛隊の東京・市谷(いちがや)駐屯地を訪ね、総監室を占拠してこれを排除しようとした自衛隊員に日本刀などで切りつけ重軽傷を負わせた。そして、三島はバルコニーに出て決起を促すビラをまき演説を試みた。その後三島は総監室に戻り、割腹自殺、森田必勝(早大生)が介錯(かいしゃく)して斬首した。この高名な作家の異常な死は国内外に大きな衝撃を与えた。時の政府は「民主的秩序を破壊する」「常軌を逸した行動」として非難したが、右翼陣営はこれこそ「日本維新運動の突破口」を切り開く「義挙」であるとして、いっせいに賛美した。
1960年代後半から続いてきた高度経済成長が一転して低成長時代に入った70年代後半のわが国が直面した最大の政治事件は、なんといっても史上初めてといわれる現職総理の犯罪であるロッキード汚職の発覚(1976)である。田中角栄元首相が逮捕され、右翼の大物児玉誉士夫(よしお)(1911―84)が事件の黒幕としてクローズアップされた。アメリカ上院外交委員会の多国籍企業小委員会において、児玉誉士夫がロッキード社から航空機の対日販売工作資金として多額の献金を受け取っていたことが明らかにされるや、右翼陣営は児玉のロッキード疑惑をめぐって、その対応姿勢が「児玉支持派」と「糾弾派」の二つに割れた。大日本愛国党総裁の赤尾敏は「児玉糾弾」に立ち上がり、東京・九段の九段会館で「愛国団体緊急時局対策懇談会」を開催した。また、支持派の青年思想研究会(青思会)は「児玉擁護」の立場を表明して反児玉グループと対立姿勢をあらわにした。この問題をめぐって両派はその後殴り込みやピストル発射の乱闘を引き起こし、76年6月ついに児玉宅に小型飛行機が突入、住宅の一部が炎上するというショッキングな事件に発展した。
1970年代後半には「Y.P(ヤルタ・ポツダム)体制打倒青年同盟」を名のる憂国同志会長野村秋介らが経団連襲撃や北方領土返還アピール、元号法制化をねらったはでな動きを展開するが、80年代に入って「反米愛国Y.P体制打倒」を訴える新右翼の日本民族独立義勇軍、統一戦線義勇軍らの動きが注目される。かれらのスローガンは天皇在位60年記念式典の挙行や靖国神社公式参拝の実現、歴史教科書問題、日本教職員組合(日教組)批判など国粋文化の保持と民族独立の精神を喪失した「戦後体制」の打破にあるが、87年5月には朝日新聞阪神支局襲撃事件が「日本民族独立義勇軍別動赤報隊」を名のるグループの犯行声明とともに起こった。この時期の右翼運動のなかには、「55年体制」が生み出した構造汚職に対する金権政治糾弾の動きもみられた。そして1980年代の日本において指摘された政治的な「保守回帰」の傾向、すなわち、総選挙における社会・共産両党の不振、中道政党の与党化、革新自治体の後退と消滅、若年層の政治的無関心といった現象のなかで、テロルなど、はでな右翼の政治活動は鳴りを潜めた。けだし、左翼や革新状況に対する反撃勢力としての右翼の属性からいって、それは自然な現象であるといえよう。
しかし、1988年12月、本島等(もとじまひとし)長崎市長が天皇の戦争責任について発言したことに対する右翼の抗議行動、また89年1月に行われた天皇即位の儀式に国家が関与することへの一部学者の批判(大嘗祭(だいじょうさい)という神事が含まれる即位の儀式に政府が公費を支出するのは、憲法で定める政教分離の原則に反するという論拠に基づく)に対して迫害を加えるなど、昭和天皇の代替りにみられた一連の右翼の活動は特筆に値しよう。右翼にとって天皇という重要なシンボルの問題を契機に、しばらく沈静化していた実力行動がにわかに再燃した感があった。とにかく、昭和天皇の死去の前後には、マス・メディアによる天皇の血圧、体温、脈拍等の容態に関する刻々の詳細な報道とそれに呼応するかのような日本全国で展開された「自粛」と「記帳」現象は、一種異様な「自粛全体主義」ともいうべき精神的雰囲気を醸成した。右翼が闘争目標として、つねに掲げてきた皇室「敬戴」のスローガンは、このような国民一般の根強いプロ天皇感情と通底しており、かつまた右翼リーダーに、その点の認識と計算があることは否定できないであろう。
1990年代に入ってからの右翼活動を一瞥(いちべつ)しよう。1989年11月の「ベルリンの壁」取り壊しに始まり、90年前後のソ連、東ヨーロッパ共産主義の崩壊、89年12月に行われたG・H・W・ブッシュ、ゴルバチョフの米ソ首脳による「マルタ会談」と「冷戦終結宣言」は、第二次世界大戦後、長い間、右翼のよりどころとなっていた反共反ソ路線の終結を告げる世界史的なドラマであった。その結果、右翼は新たな戦略目標の構築を迫られることになった。加えて、国内で93年(平成5)8月に細川内閣が成立し「55年体制」が崩壊したことは、自民党と社会党の二大政党の対立を軸とした資本主義対社会主義といった従来のイデオロギー対立を消滅させ、さらに、94年5月村山社会党委員長を首班とする自社連立内閣が成立するに及んで、自衛隊合憲、「日の丸」「君が代」尊重の意思表明や非武装中立の役割終了の表明、そして95年8月の戦後50年記念発言で、天皇の戦争責任不問の言及があるなど、かつての社会党の基本路線の完全な放棄を公言する事態が発生した。そして、96年1月には「自社大連合」による橋本内閣が成立する。このような政治的変動に応ずるかのように、日教組はそれまで軍国主義のシンボルとして「日の丸」「君が代」の強制に反対し続けてきたのを95年9月の大会で方針転換を決定、さらに、第二次世界大戦後一貫して継続してきた文部省(現文部科学省)との対決の姿勢を変えた。
このような内外の政治情勢の激変によって、反共反ソ、憲法改正=自主憲法制定、再軍備の促進を掲げて活動してきた右翼は、その主要な闘争目標を見失って沈静化しているのが90年代後半から20世紀末の状況である。しかし、右翼は「ナショナリズムの逆説」であるとよくいわれる。1980年代に目だった活動をした新右翼グループが主張した、親米と戦後体制を肯定する既成右翼の否定、そして新左翼の主張とも一部分で共感しつつ、「Y.P体制打倒」「戦後体制打倒」を声高に叫ぶその動きには、最近の論壇におけるいわゆる「自由主義史観」の動向とも相まって、近い将来のわが国の右翼運動を予見せしむるものがある。
[西田 毅]
2000年2月に誕生したオーストリアの自由党と保守系国民党の連立政権は、右翼政党(自由党)の政権掌握として、ヨーロッパ連合(EU)諸国はもちろん、全世界で大きな注目を集めた。自由党党首のハイダーは両親がナチスの活動家であったことや、彼自身のナチスの支配を容認するこれまでの発言が影響してEU諸国から制裁発動や過剰反応を引き出した。オーストリアの自由党がEU内の最大の右翼勢力であること、そしてオーストリア国内の自由な選挙で勝利したこともヨーロッパ各国の衝撃をより大きなものにしたことは確かであろう。しかし、自由党の勝因は、長年の二大政党の支配が生み出した腐敗に対する反発や、大量の移民を抱えて自らのアイデンティティに不安を感ずる多くの有権者に対して、ハイダーの掲げる移民の受け入れを凍結する声明やヨーロッパ統合にも懐疑的な姿勢がアピールしたものと考えられる。また、ハイダーがネオナチではなく、単なる大衆政治家であるといったオーストリア国内の識者の声もある。オーストリアの自由党の政権参加が、ただちに、EU各国に右翼勢力の拡大をもたらすとは考えられないが、ナチス戦犯に一貫して厳しい姿勢を取り続けている隣国ドイツのネオナチ勢力に与える微妙な影響は、今後、注目に値しよう。外国人の大量流入による社会不安や犯罪の増加を強調したり、そのことと関連した外国人の排除や差別といった問題は、2000年4月の東京都知事石原慎太郎の「三国人」発言にみられるように、将来、日本においても、新たな右翼運動のスローガンとして登場してくる可能性は十分考えられる。
[西田 毅]
現代日本の右翼が当面する問題点の一つは、かつての国家主義団体が唱えていた彼らなりの「反体制」の構想ないしイデーが希釈化し精彩を欠いてしまっている点にこそある。遠く明治の初期、玄洋社系アジア主義者や国家社会主義派、そして北一輝の『日本改造法案大綱』を比較の対象にあげるまでもなく、現在の右翼陣営は思想的な独創性や構想力、そしてなによりも強い使命感に裏づけられた主体性に乏しい。
その主張内容の是非は別として、第二次世界大戦前の大アジア主義運動にしても、それは、樽井藤吉(たるいとうきち)の『大東合邦論』から石原莞爾の「東亜連盟」の思想に至るまで、アジアの解放とわが国権の確立という二つの契機の結合を目ざして奔騰したナショナリストたちの熱い政治的エネルギーの発露なのであった。
それに対して1980年代の日教組襲撃や、地方自治体に宅地規制緩和を要求する運動などは保守支配層の実質的な別動隊の役割を演じていた。こうした右翼の低迷退廃ぶりが、頂点における政界と密着した「金権右翼」の体質となって現れたのである。その意味では、日本の正統右翼は太平洋戦争前にすでに死滅したといえるかもしれない。戦後、右翼の巨頭ともいわれた児玉誉士夫は前述のようにロッキード疑惑で自陣営内部からすらも厳しい批判を受けたのである。1998年現在、わが国の右翼勢力は約1000団体、9万人といわれている。そこには、国際勝共連合、原理研究会などの規模の大きい行動右翼も含まれている。しかし、その組織力、財政力、運動形態の巧妙さといった点で、生長の家や神社本庁といった宗教右翼がいまや新しい時代の右翼の本命として機能していることに注意すべきであろう。
ともかく、こうした右翼陣営内部における主役の交替――かつての少数の「志士」ないしカリスマによる英雄主義的支配にかわって、よりモダンな「背広を着た右翼」による大衆組織化の出現――に注目するとともに、支配層と密着しながら「戦後民主主義」の根底を揺さぶりつつ、バブル経済崩壊後の日本経済の沈滞と国民の先行き不安の感情を読みながら、状況の右傾化の進展に荷担する右翼の実態をリアルに認識する必要があるのではなかろうか。
[西田 毅]
『木下半治著『日本の右翼』(1953・要書房)』▽『『現代思想Ⅴ 反動の思想』(1957・岩波書店)』▽『丸山真男著『現代政治の思想と行動』(1964・未来社)』▽『橋川文三編集・解題『現代日本思想体系31 超国家主義』(1964・筑摩書房)』▽『C・シュミット著、田中浩・原田武雄訳『政治的なものの概念』(1970・未来社)』▽『堀幸雄著『戦後の右翼勢力』(1993・勁草書房)』▽『高木正幸著『右翼・活動と団体』改訂版(1996・土曜美術社出版販売)』▽『西田毅編『近代日本政治思想史』(1998・ナカニシヤ出版)』▽『山口定・高橋進編『ヨーロッパ新右翼』(1998・朝日新聞社)』▽『松本健一著『思想としての右翼』(2000・論創社)』▽『Ivan MorrisNationalism and the Right Wing in Japan;A study of post-war trends(1960, Oxford University Press)』
フランス革命時代の国民公会で,革命の急進化に反対する一派が議長席から見て右側に位置していたことに由来する言葉で,〈左翼〉を対抗概念とする。〈進歩〉に対しては〈保守〉を,〈革命〉に対しては〈反動〉を,〈急進〉に対しては〈漸進〉を志向する政治勢力,人物を指すが,具体的な状況下で〈右翼〉が何を意味するかは,その言葉が用いられる政治的場の性格とそこで〈左翼〉とされるものとの相対的関係で決まるといってよい。革命運動や労働運動の内部の漸進派が〈右翼日和見分子〉と呼ばれたりするのはその例である。また国や社会によっても右翼の意味には違いがあるが,一般に極端な民族主義や反共主義を唱える勢力は右翼とされている。その代表例として,第2次大戦中のドイツのナチス,イタリアのファシスト,日本の超国家主義者などがあげられるが,そのほかにイギリスのイギリス・ファシスト同盟(モーズレー運動),フランスのクロア・ド・フー,ベルギーのレクシスト,スペインのファランヘ党などがある。日本で固有名詞的に〈右翼〉と呼ばれるのは皇室擁護や反共主義を標榜する団体のことで,暴力団などと結びつくものもある。この言葉は,その性格上,客観的記述のためより相手方への評価をこめた政治用語として使われることが多い。
執筆者:坂本 多加雄
日本の右翼運動は,明治政府の欧化政策に反対するため,士族反乱や自由民権運動と結んで反政府運動を展開していた平岡浩太郎や頭山満らが,1879年に向陽社を結成し,81年にそれを玄洋社と改称したときに開始された。やがて玄洋社は自由民権運動からはなれ,条約改正即時断行,日清開戦,大陸への進出などの対外強硬策を主張する国家主義団体に成長していった。さらに1901年には,三国干渉後の対露強硬世論の高揚を背景に,内田良平らによって黒竜会が結成された。明治期の右翼団体は,天皇中心主義,国家主義,大アジア主義,現状打破などの主張をかかげて多くの大陸浪人を擁し,一方では大アジア主義の主張から金玉均,孫文,E.アギナルド,B.ボースらアジア各国の独立運動家を援助したが,他方では日露開戦,日韓併合の推進などを主張して軍部と結び,つねに大陸侵略の先兵の役割を果たした。しかし指導者は〈国士〉をもって任じ,官途につかず,もっぱら政界の裏面で暗躍した。18年の米騒動を契機に,国内では各種の社会運動が高揚し,第1次世界大戦後には中国や朝鮮で反日民族独立運動がおこり,ベルサイユ・ワシントン体制のもとで日本が孤立化するという状況があらわれると,危機感を強めた右翼のなかから〈国家改造〉を主張する新しいファッショ的な思想と運動が台頭してきた。その指標となったのが,19年に書かれた北一輝の《国家改造案原理大綱》(1923年に《日本改造法案大綱》と改題して出版)と同年北,大川周明,満川亀太郎らによる猶存社の結成であった。これ以後多くのファッショ団体が結成され,天皇中心主義による〈国家改造〉(〈昭和維新〉の断行),農本主義と家族主義,反ソ反共,反民主主義,反自由主義,反財閥,ベルサイユ・ワシントン体制打破,大アジア主義による大陸進出などの主張をかかげて活発な運動を展開した。新たに登場したファッショ団体は,観念右翼(日本主義派)と革新右翼(国家社会主義派)に大別され,両派は指導権争いと対立をくりかえしながら昭和戦前期右翼運動の二大潮流を形成した。観念右翼には国本社,建国会,血盟団,神兵隊,大日本生産党,大東塾など,革新右翼には経倫学盟,日本国家社会党,新日本国民同盟,日本革新党など,中間派には東方会,大日本青年党,国粋大衆党などがあったが,中間派は思想上の立場からいえば革新右翼に分類することも可能である。これらの右翼団体の多くは軍部内のファッショ的革新派や革新官僚と結びついていたが,観念右翼は皇道派に,革新右翼と中間派の多くは統制派に親近感をいだいていた。テロをともなう彼らの運動は,満州事変前後から活発化したが,多くは大衆的基盤が弱く,理論性に乏しく,非合法活動に走った場合には弾圧されるなど,全体としては政治のファッショ化を促進する役割を果たしたにとどまった。
敗戦後の占領期には,指導者の追放と約350団体中237団体の強制解散などの措置により,右翼は大打撃をうけた。旧右翼団体のなかには名称を変更して再出発したものもあったが,占領期には戦後派新右翼が主流を占めた。しかし1950年の朝鮮戦争勃発を契機に追放解除や再軍備開始などの〈逆コース〉現象があらわれ,52年に日本が独立を回復すると,旧右翼が復活し,新右翼の多くは解消するか旧右翼系に再編成された。占領期の右翼は,民主主義を仮装していたが,独立後は天皇中心主義,反共反社会主義,再軍備促進,憲法改正などの独自の主張をかかげて公然と活動しはじめた。復活した右翼のなかには,安岡正篤や笹川良一らのように歴代保守政権との癒着を深めた者,ロッキード事件被告の児玉誉士夫のように腐敗行為を摘発された者,赤尾敏らのように執拗な反共街頭宣伝をくりかえす者などさまざまなタイプがみられる。右翼団体は,革新勢力の反政府運動や平和運動が高まるたびに危機感を強め,一方では60年の浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件のようなテロ活動に走り,他方では情勢の変化に応じてソ連(現,ロシア)脅威論にもとづく自主防衛力の強化と日米安保体制堅持,自主憲法制定,建国記念日(紀元節)復活・奉祝,靖国神社国家護持,日教組打倒と教育正常化,北方領土奪還などを呼号している。
執筆者:木坂 順一郎
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…しかし,ファシズムが一般にどこの国でも,青年層や失業者と未組織労働者などの一部労働者の支持を集めたことも,これに劣らず重要であり,さらに活動家層についてみれば,第1次大戦の戦場体験(塹壕体験)や,戦場で青春を燃焼し尽くして平和な市民生活への適応能力を失った元前線兵士たちの絶望的な行動主義が注目を要する。また第1次大戦終了直後の混乱のなかでロシア革命の成功に刺激されて,多かれ少なかれ革命的な色彩をもった労働運動が各国で燃え上がったのに対して,地主,軍人,右翼政治家,一部財界人の間に深刻な危機感が生まれ,彼らが資金や信用を提供してファシズム運動を支援したという事実も見のがせない。30年代の世界恐慌(大恐慌)は,そうした動きをさらに世界中に広める役割を果たした。…
※「右翼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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