柳敬助(読み)ヤナギ ケイスケ

20世紀日本人名事典 「柳敬助」の解説

柳 敬助
ヤナギ ケイスケ

大正期の洋画家



生年
明治14(1881)年5月16日

没年
大正12(1923)年5月16日

出生地
千葉県中村

旧姓(旧名)
山田

学歴〔年〕
東京美術学校(現・東京芸術大学)〔明治36年〕中退

経歴
明治36年白馬会洋画研究所に入り、黒田清輝師事。のちアメリカに5年、欧州に1年留学し、42年帰国。以後文展に毎回出品、肖像画を得意とした。高村光太郎荻原守衛と親しく、大正3年二科会創立のとき鑑査委員に推されたが、翌年退会して文展に復帰。12年遺作展を三越で開催中、関東大震災にあい主要作品はほとんど焼失した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柳敬助」の解説

柳敬助 やなぎ-けいすけ

1881-1923 明治-大正時代の洋画家。
明治14年5月15日生まれ。白馬会洋画研究所で黒田清輝にまなぶ。欧米に留学し,荻原守衛,高村光太郎らと交遊。文展に出品し,二科会創立にくわわった。大正12年5月16日死去。43歳。同年遺作展開催中,関東大震災で作品のおおくが焼失した。千葉県出身。東京美術学校(現東京芸大)中退。旧姓は山田。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の柳敬助の言及

【明治・大正時代美術】より

…これらは黒田流文展系アカデミズムの平面的な描写=外光主義にあきて,新しい方向を求めていた青年画家たちに強い影響を与えるようになった。このころ斎藤与里(より)(1885‐1959),柳敬助(1881‐1923),津田青楓(1880‐1978),藤島武二,有島生馬,南薫造(くんぞう)(1883‐1950),山下新太郎(1881‐1966),石井柏亭(鶴三の実兄),斎藤豊作(とよさく)(1880‐1951),高村光太郎らが,フランス印象派の手法をたずさえて次々に帰国している。そして1910年高村光太郎が《スバル》に発表した論文《緑色の太陽》は,自然を見る人間の内面的な活動,人格(自我)の表現を主張し,わが国における印象派宣言として青年画家たちを狂喜させた。…

※「柳敬助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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