やま‐だ【山田】
[1] 〘名〙
① 山の中にある田。
山間の田。山田の代
(しろ)。《季・秋》
※
古事記(712)下・
歌謡「あしひきの 夜麻陀
(ヤマダ)を作り 山高み 下樋を走せ」
[2]
[二] 常陸国(茨城県)の古郷名。現在の常陸太田市北部。
久慈川の
支流、山田川の流域にあたる。
[三] 奈良県桜井市南
西部の地名。古代、山田寺があった。
※
万葉(8C後)一三・三二七六「百足らず 山田の道を 波雲の 愛
(うつく)し妻と 語らはず 別れし来れば」
[五] 兵庫県小野市の地名。山田ノ里。
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デジタル大辞泉
「山田」の意味・読み・例文・類語
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山田
やまだ
南北朝時代頃からみえる地名。現山田町一帯および都城市の一部に比定される。現山田町の中心部の丘陵上大字山田の脇之馬場に山田城跡があり、城は龍廻城・朝霧城ともよばれた。戦国時代には北郷久家が城主であった。城域は後世の破壊によりほとんど原形をとどめていないが、古図などにより本丸・上総城・安房城などの曲輪と、長堀とよばれる延長一・三キロに及ぶ長大な空堀があったことが確認されている。
嘉慶三年(一三八九)二月二五日の山田華舞六所権現棟札(庄内地理志)によると、地頭島津幸久は「山田六所権現」(現山田神社)の宝殿を造営している。南九州の領主配置を伝える文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)には、庄内と山田の領主として肝付大炊介の名がみえる。明応四年(一四九五)六月二一日の島津忠昌宛行状(樺山文書)によれば、樺山長久は島津庄郡元(現都城市)四〇町などとともに山田三〇町を戦功の賞として与えられている。この頃、樺山氏は野々美谷(現都城市)方面から山田に触手を伸ばしていたのであろう。永正一六年(一五一九)四月一六日の山田荒神棟札(庄内地理志)には、島津数久が檀越となって造立したことが記される。大永二年(一五二二)伊東氏が梶山(現三股町)方面から都城の北郷氏を攻めた際、伊東・北原両氏は北郷久家の守る山田城を落し、山田は北原氏の本領ということで同氏の知行になったという(日向記)。この頃のものとみられる二月七日の肝付兼興宛の北原久兼書状(肝付文書)には、久兼は庄内を自領としているが、北郷氏と北原氏は境目で緊張状態にあり、志和池(現都城市)・山田の城の修造を行い、庄内より大隅国財部(現鹿児島県財部町)、梅北(現都城市)を通路として櫛間(現串間市)方面とつなぐことを新納氏に連絡したことが述べられている。
山田
やまだ
能都町西部の山田川流域から穴水町北東部にかけての、中世の広域地名と考えられ、大屋庄の庄域でもあった。文明一二年(一四八〇)七月二二日に重蔵神社(現輪島市)を勧請したとされる今蔵神社蔵の棟札には、山田郷として院内名・木住名・八ノ田名・神道名・吉谷名・武連名・柏木名・魚地名・木戸名・本江名および曾山名・伊久留名・菅谷名・此木名(現穴水町)の一四名がみえる。
鎌倉末期頃と推定される崇徳院御影堂目録案(華頂要略)に大屋庄一〇ヵ村の一つとして「山田村」がみえ、一二貫文の年貢が課され、庄家役の仕丁として山田は一一月が割当てられていた(年未詳「西保田数以下注文案」同書)。
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山田【やまだ】
三重県(伊勢国)の地名。現在の伊勢市中心部にあり,伊勢神宮の内宮の鳥居前を宇治,外宮(げぐう)の鳥居前を山田と呼んだ。室町時代から伊勢御師(おし)による伊勢信仰の広がりによって外宮の門前市が発展したが,市の指導権をめぐって山田神人(じにん)と神役人の地下人(じげにん)との間に争いが生じた。同時期自治組織として山田三方が形成される一方,宇治との間に参詣人獲得や関所の設置をめぐってたびたび抗争が起きている。江戸時代は幕府直轄下におかれ,山田奉行が支配。1788年の戸数は約6300で,宇治にくらべて商業都市としての性格が強い。1889年山田と宇治が合併し宇治山田町,1906年市制施行,その後の町村合併を経て1955年伊勢市と改称。→伊勢[市]
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山田
やまだ
福岡県中部,嘉麻市北東部の旧市域。遠賀川支流の山田川上流域にある。 1954年市制施行。 1955年猪位金村の一部を編入。 2006年稲築町,碓井町,嘉穂町と合体して嘉麻市となる。 1894年古河鉱業下山田鉱,1895年三菱鉱業上山田鉱が開鉱されてから炭鉱都市として急激に発展。最盛期には人口約4万に達した。 1960年頃からの石炭不況に伴い大部分の炭鉱が閉山,産炭地域振興事業により布靴,食品,自動車関連部品などの企業が進出した。農村部では果樹を産し,畜産も行なわれる。白衣観音で名高い天台宗安国寺,大法山公園がある。
山田
やまだ
富山県中部,富山市の西部に位置する旧村域。飛騨山地北部にあり,神通川の支流井田川の支流山田川に沿う。 1889年村制。 2005年富山市,大沢野町,大山町,八尾町,婦中町,細入村と合体して富山市となった。大部分は丘陵性の山地。農林業が主産業。米作のほかタバコ,ダイコン,カキ,木材を産する。過疎対策として村営牛岳スキー場の造成や集落再編成が進められた。山田川の渓谷に山田温泉がある。
山田
やまだ
宮崎県南西部,都城市西部の旧町域。都城盆地の北西部にある。 1952年町制。 2006年都城市,山之口町,高城町,高崎町と合体して都城市となった。江戸時代は都城支藩領。霧島山の東山麓を占め,火山灰台地が広がり,大淀川の支流丸谷川が東流。山林が過半を占める。農業は米,野菜の栽培のほか,畜産も行なわれる。「山田のイチョウ」は巨樹として有名。
山田
やまだ
千葉県北東部,香取市南東部にある旧町域。 1954年府馬町 (1925年町制) と八都村,山倉村の2村が合体して成立。 2006年佐原市,栗源町,小見川町と合体して香取市となった。下総台地に位置し,古くからサツマイモ,ラッカセイなどの畑作地帯で,花卉,ナシ栽培なども行なわれる。北東部には水田地帯が広がる。中心地区の府馬にある大クスは国指定天然記念物。
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山田
昭和期の仏文学者 東京大学名誉教授。
- 生年
- 大正9(1920)年11月3日
- 没年
- 平成5(1993)年6月21日
- 出生地
- 東京
- 学歴〔年〕
- 東京帝国大学文学部仏文学科〔昭和19年〕卒
- 経歴
- 昭和21年同志社大学予科講師、22年助教授、25年東京大学教養学部助教授、39年文学部助教授、41年教授、57年成城大学文芸学部教授を歴任。フローベールの研究で知られ、「ボバリー夫人」「感情教育」「紋切型辞典」などの訳書がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
やまだ【山田】
伊勢神宮外宮鎮座地,またその鳥居前町。現在,内宮の鳥居前町宇治とともに三重県伊勢市の中心部。《止由気(とゆけ)宮儀式帳》《延喜式》は外宮の所在地を度会(わたらい)郡沼木(ぬき)郷山田原(やまだのはら)とし,12世紀には山田村,あるいは山田郷としても現れる。1181年(養和1)には熊野山衆徒が宇治・山田を侵略,民家を破壊した事件が生じている。山田が外宮の門前市として発展するのは室町時代からで,御師(おし)による伊勢信仰の広がりと参宮者(道者)の増加による。
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普及版 字通
「山田」の読み・字形・画数・意味
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世界大百科事典内の山田の言及
【伊勢[市]】より
…三重県南東部の市。1906年宇治山田町が市制,55年豊浜,北浜,城田,四郷の4村を編入して改称。人口10万2632(1995)。…
【伊勢商人】より
…中世の伊勢には東国に多数分布する伊勢大神宮領から送進される年貢物の集散や陸揚げを行う大湊など港津が発達し,また畿内と東国を結節する地理的条件に恵まれたため桑名のような自治都市の成立もみられ,多くの廻船業者,問屋が輩出した。安濃津(あのつ)(現,津市)も大神宮領からの年貢物の取扱い,さらには海外貿易港として発展し,山田の三日市・八日市には多数の市座商人や土倉がたむろし,活躍していた。これら商人の中には大湊の角屋氏のように海外貿易に進出するもの,後北条氏の城下町小田原に進出して住みつくもの,さらには遠く会津若松など東国に行商を行うものも現れた。…
【伊勢国】より
…桑名,員弁(いなべ),朝明(あさけ),三重,鈴鹿,河曲(かわわ),奄芸(あむぎ∥あんへ),安濃,壱志(いちし),飯高,多気(たけ),飯野,度会(わたらい)の13郡を管する。伊勢神宮は,垂仁天皇の世に倭姫命が五十鈴川上に天照大神の斎宮をたてたのが内宮のはじまり,雄略天皇の世に豊受大神を山田原にまつったのが外宮のはじまりとされる。桑名郡多度町の多度神社は,鉄工業の神として古来尊崇され,788年(延暦7)の〈神宮寺伽藍縁起幷資財帳〉がある。…
※「山田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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