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荻原守衛 おぎわらもりえ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

荻原守衛
おぎわらもりえ

[生]1879.12.1. 長野,南安曇
[没]1910.4.22. 東京
彫刻家。号は碌山。 18歳のとき心臓病にかかり,キリスト教求道者となった。 1899年画家を志して上京し,小山正太郎の不同舎で学んだ。 1901年洗礼を受け,同年アメリカへ渡りニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグその他で学んだ。さらに 03年フランスへ留学し,J.-P.ローランスに学ぶも同地でロダンの作品,特に『考える人』に感動して画業をやめ彫刻に転じた。 07年にはロダンを訪問。 08年帰国後は文展,太平洋画会に生命感あふれる清新な作品を発表,高村光太郎とともに日本近代彫刻の道を開いた。その後,東京,新宿の中村屋隣にあった写真館をアトリエに改造することを引受け,落成をみた4月 20日に中村屋で吐血,31歳の若さで急死した。遺作は有志の手で故郷に建設された碌山美術館に納められている。主要作品『文覚』 (1908) ,『女』 (10) 。なお『女』の石膏原型 (東京国立博物館) は,近代日本彫刻最初の重要文化財に指定された。

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デジタル大辞泉の解説

おぎわら‐もりえ〔をぎはらもりヱ〕【荻原守衛】

[1879~1910]彫刻家。長野の生まれ。号は碌山(ろくざん)。小山正太郎に油絵を学び、のち渡仏して彫刻に転向。作風はロダンの内的生命力の表現に負うところが多く、近代彫刻の幕を開いた。遺作は郷里長野県安曇野(あづみの)市の碌山美術館に収蔵。

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百科事典マイペディアの解説

荻原守衛【おぎわらもりえ】

彫刻家。号は碌山。長野県生れ。上京して油絵を小山正太郎に学ぶ。1901年渡米,1903年フランスに移り,絵画から彫刻に転じた。ロダンの影響濃い重厚な写実的作品を発表し,明治の彫刻界に大きな足跡を残した。
→関連項目相馬黒光高村光太郎戸張孤雁中原悌二郎

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

荻原守衛 おぎわら-もりえ

1879-1910 明治時代の彫刻家。
明治12年12月1日生まれ。32年上京し小山正太郎の不同舎で洋画をまなぶ。アメリカからフランスにわたり,ロダンの「考える人」に感銘をうけ彫刻に転じる。41年帰国。生命感あふれる作品を発表し,日本に近代彫刻への道をひらいた。明治43年4月22日死去。32歳。長野県出身。号は碌山(ろくざん)。作品に「文覚(もんがく)」,「女」(遺作)など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

荻原守衛

没年:明治43.4.22(1910)
生年:明治12.12.1(1879)
明治期の彫刻家。長野県穂高町の農家に生まれる。父勘六,母りゃうの5男。号碌山。少年時代から,のちに東京で新宿中村屋を営む相馬愛蔵・良(黒光)夫妻の知遇を得,同宅で油絵を見て画家を志す。明治32(1899)年に上京して小山正太郎の不同舎で洋画を学ぶ。また,このころキリスト教に興味を持ち,内村鑑三らの講演などにも通い,34年に洗礼を受けた。同年渡米。ニューヨークで下僕をしつつ,アート・スチューデント・リーグに学ぶ。36年パリに渡り,アカデミージュリアンジャン=ポール・ローランスに師事するが,37年のサロン(展覧会)でロダンの「考える人」を見て衝撃を受け,彫刻家への転向を決意する。一時帰米ののち,39年再渡仏し,アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入る。このころに,夏目漱石の『二百十日』の主人公「碌さん」とロダンに音が通うところから「碌山」の号を用いるようになる。40年,パリをたってイタリア,ギリシャ,エジプトを訪れたのち,41年帰国。新宿中村屋に出入りし,黒光の人柄を慕って集う芸術家たちと交遊。また,黒光への思慕による苦悩から「文覚」(第2回文展3等賞),「デスペア」,「女」(第4回文展3等賞)などの秀作を生んだ。ロダン研究から得た情感表現,そのための人体のデフォルメは,謹直な写実を重視していた当時の彫刻界に大きな影響を与え,その後の日本の近代彫刻の流れを決定づけた。中村屋で突然喀血し,死去。30歳。没後,郷里に碌山美術館が設立され作品が収められた。<著作>『彫刻真髄』<参考文献>杉井六郎編『碌山日記』

(山梨絵美子)

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世界大百科事典 第2版の解説

おぎわらもりえ【荻原守衛】

1879‐1910(明治12‐43)
彫刻家。碌山と号す。長野県穂高町に生まれる。井口喜源治のキリスト教思想に基づく研成義塾に参加する。相馬愛蔵に嫁いだ黒光夫人に啓発され,1899年画家を志して上京,不同舎に学んだが,1901年アメリカに留学,アート・スチューデンツ・リーグなどで学び,戸張孤雁を知る。03年フランスに渡り,アカデミー・ジュリアンでJ.P.ローランスに師事し,主としてデッサンを学んだ。翌年のサロンでロダンの《考える人》を見て衝撃をうけ,彫刻家に転向。

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大辞林 第三版の解説

おぎわらもりえ【荻原守衛】

1879~1910) 彫刻家。長野県生まれ。号、碌山ろくざん。初め洋画を志したが、ロダンの「考える人」に啓発され、彫刻に転向。作「文覚」「女」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

荻原守衛
おぎわらもりえ
(1879―1910)

明治の彫刻家。号碌山(ろくざん)。明治12年12月1日、長野県に生まれる。井口喜源治(きげんじ)の研成義塾に参加し、1899年(明治32)画家を志して上京、不同舎に学んだが、1901年(明治34)アメリカに留学。1903年フランスに渡り、アカデミー・ジュリアンでJ・P・ローランスに師事した。翌年のサロンでロダンの『考える人』を見て強く感動し、彫刻に転じた。いったんアメリカに戻り苦学したのち、1906年ふたたびフランスに渡り、アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入り、ロダンを訪れた。1908年帰国し、第2回文展に『文覚(もんがく)』と滞欧作を応募したが『文覚』のみ入選し、三等賞を受賞した。翌年第3回文展で『北条虎吉像』(重要文化財)が三等賞を受けたが、文展や太平洋画会展に発表した生命感あふれる新鮮な造形は、工部美術学校以来の外形描写を主とする彫刻界に大きな刺激を与えた。そして戸張孤雁(とばりこがん)、中原悌二郎(ていじろう)、中村彝(つね)、堀進二ら多くの新進美術家に強い影響を及ぼし、荻原を中心に相馬愛蔵(そうまあいぞう)・黒光(こっこう)夫妻による「中村屋グループ」が形成され、戸張と中原は絵から彫刻に転じた。帰国後わずか2年後の明治43年4月22日に急死したが、死後の第4回文展で絶作『女』(重要文化財)は三等賞を受けた。充実した量塊に豊かな生命感をもつみずみずしい造形は、高村光太郎とともに、日本の彫刻に初めて本格的な近代の扉を開いた。彫刻のほか油絵も描いた荻原の遺作は、アルプスを望む生地、長野県安曇野(あづみの)市に建てられた碌山美術館に収蔵され、公開されている。[三木多聞]
『荻原守衛著『彫刻真髄』(遺稿集の増補新版、1963・中央公論美術出版)』

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世界大百科事典内の荻原守衛の言及

【明治・大正時代美術】より

…これらようやく盛んになりかけた洋風彫塑に対抗して,1907年,岡倉天心を会長とし,米原雲海(1869‐1925),山崎朝雲(1867‐1954),平櫛(ひらくし)田中らの新鋭木彫家6名による日本彫刻会が結成され,文展第3部には,木彫家,彫塑家が一堂に会することとなる。文展では審査員の新海竹太郎,受賞者の朝倉文夫が注目されたが,08年ロダンに師事して帰国したばかりの荻原守衛が,ロダン風の生命感にあふれた表現により識者の評価を集める。荻原は名作《女》(1910)を遺して夭折したが,戸張孤雁,中原悌二郎,堀進二(1890‐1978),石井鶴三ら多くの後進に与えた刺激は大きかった。…

※「荻原守衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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