日本歴史地名大系 「柳津河尻庄」の解説
柳津河尻庄
やないつかわじりのしよう
川辺郡にあった庄園で、尼崎市域に所在したとみられる。柳津庄、楊津庄ともよばれる。
「中右記」長承二年(一一三三)八月二〇日条に藤原宗忠が「楊津庄」のことを藤原忠実に申入れたことがみえる。安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(「高山寺聖教類裏文書」山科家古文書)には庁分御庄のうちに「柳津川尻」があげられており、鳥羽天皇皇女八条院の領有するところとなっていた。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)にも同様に庁分として「柳津河尻」とみえ、「御管領」と注記されていることから、当庄は他の八条院領庄園と同じく大覚寺統の所有に帰したものとみられる。嘉禄年中(一二二五―二七)に、順徳天皇の女大谷姫宮の家領であった楊津庄など六ヵ庄を姫宮の死後、青蓮院門跡の二品尊性法親王(後高倉院皇子)に譲与することが定められ、天福元年(一二三三)宣旨により同門跡相承が安堵されたが、延応元年(一二三九)姫宮に先立って尊性が没し、当庄などは尊性より弟子の無品尊守法親王(土御門天皇の皇子)に譲与された(同年一二月二五日「四条天皇宣旨」門葉記)。
鎌倉期以降当庄の所職は分割相承されていったようで、庄内の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報