日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原宗忠」の意味・わかりやすい解説
藤原宗忠
ふじわらのむねただ
(1062―1141)
平安後期の公卿(くぎょう)。父は権大納言(ごんのだいなごん)宗俊(むねとし)。母は式部大輔(しきぶのたいふ)藤原実綱(さねつな)の娘。当初は名門貴族らしく侍従(じじゅう)、右少将(うしょうしょう)、左少将と近衛府(このえふ)ルートで官位の昇進をみたが、1094年(嘉保1)に右中弁(うちゅうべん)に直任されてからは弁官ルートでの昇進に転換。この背景には、母方の儒家として著名な日野(ひの)流藤原氏との関係があるとみられるが、朝廷の公事(くじ)に精通していたため、関白藤原忠実(ただざね)の政治顧問となり、また白河法皇や堀河天皇からも重用された。しかし、白河・鳥羽院政下にあっても、藤原摂関家の繁栄を期する願望は強く、院近臣(いんのきんしん)および院政に対する反発のあったことは、その日記『中右記(ちゅうゆうき)』からうかがわれる。そのためか、官位昇進のスピードはゆるやかで、祖父俊家(としいえ)、曾祖父頼宗(よりむね)(太政大臣道長の次男)と同じ右大臣に任ぜられたのは、1136年(保延2)12月のことで、すでに75歳に達してからであった。1105年(長治2)以降、中御門富小路(なかみかどとみのこうじ)邸に住んだことから、後世、中御門右大臣と称される。晩年に至るまで日野の法界寺(ほうかいじ)をしばしば訪れ、その塔や阿弥陀堂などを建立・供養している。また、朗詠(ろうえい)を得意とし、忠実とともに『朗詠九十首』を選定するなど、その発展にも貢献した。
[槇 道雄]
『戸田芳実著『中右記 躍動する院政時代の群像』(1979・そしえて)』▽『河野房男著『右府藤原宗忠と日野法界寺』(1979・広雅堂)』▽『青柳隆志著『日本朗詠史 研究篇』(1999・笠間書院)』