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足利義持 あしかがよしもち

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

足利義持
あしかがよしもち

[生]元中3=至徳3(1386).2.12.
[没]正長1(1428).1.18. 京都
室町幕府4代将軍 (在職 1394~1423) 。義満の子。母は藤原慶子。9歳で将軍職を継いだが,政務は義満がとった。応永9 (02) 年従一位,同 16年内大臣となる。同 15年に没した義満に太上法皇の称号を贈ろうとする朝議を辞し,また同 26年明との国交を断絶するなど,義満の施政を改めた。同 23年関東に起った上杉禅秀の乱に参画した弟義嗣を同 25年に殺害。同 30年には子義量に将軍職を譲って出家したが,2年後,義量が死ぬと再び政務をとった。死にのぞみ,男子がなく,後継者を指名せず,その選定を宿老にまかせた。

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百科事典マイペディアの解説

足利義持【あしかがよしもち】

室町幕府4代将軍足利義満の子。1394年義満の権力下で将軍に就任するが,異母弟義嗣(よしつぐ)への義満の偏愛で一時地位が危ぶまれた。義満の死後,1418年に上杉禅秀の乱に加担した義嗣を殺し,1423年鎌倉公方足利持氏を制圧,子義量(よしかず)に将軍職を譲って出家。しかし義量が早世したため,法体のまま将軍を置かずに執政。父義満への尊号辞退,日明貿易の廃止など義満時代の政治批判の傾向が強かった。
→関連項目玉【えん】梵芳倉見荘日本国王畠山満家満済准后日記

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

足利義持 あしかが-よしもち

1386-1428 室町幕府4代将軍。在職1395*-1423。
至徳3=元中3年2月12日生まれ。足利義満の長男。応永元年9歳で将軍職をつぐ。父の在世中は実権がなく,その死後,斯波義将(しば-よしまさ)らの支持で政務をとる。父への太上(だいじょう)天皇号辞退,明(みん)(中国)との貿易中止など,義満時代の政治をあらためた。応永35年1月18日死去。43歳。法名道詮法号勝定院

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朝日日本歴史人物事典の解説

足利義持

没年:正長1.1.18(1428.2.3)
生年:至徳3/元中3.2.12(1386.3.12)
室町幕府第4代将軍。義満の嫡子,母は三宝院坊官安芸法眼の娘慶子。応永1(1394)年12月わずか9歳で元服して将軍に任官,正五位下に叙し,2年後参議,同13年には権大納言兼右大将に上る。しかしこの間父義満が依然として政務全般を掌握していたので,将軍位は傀儡に過ぎなかった。また父に叱責されて伝奏日野重光に救解を頼んだこともあり,義満との反目は深刻で,これが後年の施策に反映したとされる。同15年5月義満の死により親政を始め,宿老斯波義将,畠山満家らがこれを助けた。重要な政策としては,亡父義満に贈られた上皇の尊号を拒否して皇位簒奪路線を否定したこと,明への屈従を嫌って断交したことなどがある。また亡父の政庁である北山第を破却,移建して三条坊門第に移った。同19年には北朝の称光天皇を擁立したが,これが両朝和約に違反するとして飛騨・伊勢両国司らが蜂起,また同23年には関東に上杉禅秀の乱が起こるがいずれも短期に鎮圧され,義持の治世20年間は室町期中まれな安定期だったといえる。 親政後は内大臣に上り,同30年3月将軍を嫡子義量に譲るが,政務はとり続け,「室町殿」と称された。2年後義量が夭折し,将軍位は空位となった。このころ甲斐,常陸の紛争を機に幕閣では関東出兵が議されたが,宿老は「遠国融和策」を主張して出兵に反対,鎌倉公方足利持氏も幕府に譲歩して大事には至らなかった。晩年は護持僧三宝院満済が宿老会議の座長となり,重事は宿老の合議により決定された。義持の治政下に地方では守護領国制が進展し,大名,国人の諸家では家臣団の力が強化された。腫物の傷がもとで重態に陥ると,宿老らは義持自らによる後嗣指定を望んだが,嫡子のない義持はこれを拒否,ついに前代未聞のくじ(神判)による跡目決定となり,その結果同母弟の義教が選ばれた。これは当主の遺言よりも家老の意向が優先するという時代思潮を反映したものである。

(今谷明)

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世界大百科事典 第2版の解説

あしかがよしもち【足利義持】

1386‐1428(元中3∥至徳3‐正長1)
室町幕府4代将軍。1394‐1423年(応永1‐30)在職。義満の子。母は醍醐寺三宝院坊官安芸法眼の女藤原慶子。1394年12月17日元服して征夷大将軍となったが,その後も父義満が政務を執った。しかも義満の義嗣(義持の異母弟)偏愛が始まり,家督相続が危ぶまれたが,1408年(応永15)義満が死ぬと,管領斯波義将らの支持を得てその地位を保全した。翌年7月内大臣になり,10月には北山第から,新築成った三条坊門第に移った。

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大辞林 第三版の解説

あしかがよしもち【足利義持】

1386~1428) 室町幕府四代将軍(在職1394~1423)。義満よしみつの子。将軍となるが、幼少のため実権は父義満が掌握。義満の死後、斯波義将らの補佐をうけ、勘合貿易の中止など独自の幕政を行なった。また、禅宗に深く帰依した。1423年将軍職を子の義量に譲った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

足利義持
あしかがよしもち
(1386―1428)

室町幕府第4代将軍。義満(よしみつ)の側室藤原慶子を母に至徳(しとく)3年2月12日生まれる。1394年(応永1)9歳で元服し、正五位下左中将に叙任されて将軍宣下を受ける。参議、従三位権中納言(じゅさんみごんちゅうなごん)へと累進したが、政務の実権は父義満に握られ職名のみの将軍であった。義満が北山第(きたやまてい)を落成して移住したのちも室町第に住し、しかも晩年の義満が義嗣(よしつぐ)(義持の異母弟)を偏愛したため、義嗣との間に対立感情が生じた。義満死後、斯波義将(しばよしまさ)ら幕閣の支持で改めて地位を確保し、ひそかに関東や南朝方に通じ謀反のおそれのあった義嗣を捕らえて殺害させる一方、三条坊門に新第を築き幕政を固め、幕府の最盛期を迎えた。義満の太上天皇号辞退や日明(にちみん)外交貿易の中止、天竜寺を五山第一位とし五山官寺の綱紀を糺(ただ)すなど、斯波義将、細川満元(みつもと)、畠山満家(はたけやまみついえ)の歴代管領(かんれい)の献策、補佐で義満時代の弊風是正に努めた。1423年(応永30)嫡子義量(よしかず)に将軍職を譲って出家したが、義量早世のためふたたび法体のまま政務をみた。晩年赤松満祐(あかまつみつすけ)の播磨(はりま)守護職を取り上げ溺愛(できあい)する赤松持貞(もちさだ)に譲らせようと画策して満祐の怒りを買う事件などあったが、応永(おうえい)35年正月18日43歳で死去した。法号は勝定院殿顕山道詮禅定門。京都北山の等持院に葬られた。[太田順三]
『臼井信義著『足利義満』(1960・吉川弘文館)』

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367日誕生日大事典の解説

足利義持 (あしかがよしもち)

生年月日:1386年2月12日
室町時代の室町幕府第4代の将軍
1428年没

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