足利義持(読み)アシカガヨシモチ

デジタル大辞泉 「足利義持」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしもち【足利義持】

[1386~1428]室町幕府第4代将軍在職1395~1423。義満の子。応永元年12月(1395年1月)9歳で将軍となる。父の死後日明にちみん貿易を中止するなど独自の政策が目立った。

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精選版 日本国語大辞典 「足利義持」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしもち【足利義持】

  1. 室町幕府第四代将軍。義満の子。応永元年(一三九四)将軍となる。同三〇年三月将軍職を義量(よしかず)に譲ったが、義量が早世したため没時まで執政した。至徳三=元中三~正長元年(一三八六‐一四二八

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改訂新版 世界大百科事典 「足利義持」の意味・わかりやすい解説

足利義持 (あしかがよしもち)
生没年:1386-1428(元中3・至徳3-正長1)

室町幕府4代将軍。1394-1423年(応永1-30)在職。義満の子。母は醍醐寺三宝院坊官安芸法眼の女藤原慶子。1394年12月17日元服して征夷大将軍となったが,その後も父義満が政務を執った。しかも義満の義嗣(義持の異母弟偏愛が始まり,家督相続が危ぶまれたが,1408年(応永15)義満が死ぬと,管領斯波義将らの支持を得てその地位を保全した。翌年7月内大臣になり,10月には北山第から,新築成った三条坊門第に移った。16年関東に上杉禅秀(氏憲)の乱が起こると,義嗣が禅秀らと通じたということでこれを捕らえ,18年1月殺した。23年3月18日将軍を辞して子義量を将軍とし,4月25日には出家したが,父義満の例に倣ってひきつづき幕政をみた。2年後の2月義量が早世した後は将軍を置かず執政。これより先1423年鎌倉公方(くぼう)足利持氏との間が不和となり出兵を計画したが,持氏が帰順して落着した。ついで27年には赤松満祐の職播磨守護をその一族赤松持貞に与えようとしたため,満祐の反抗にあったが,畠山満家らの尽力で事無きを得た。28年1月18日没。法号勝定院顕山道詮。義持は謙退の気強く,父義満に対する太上法皇の尊号贈与を辞退し,自分も左大臣昇進を辞した。他方,老臣に対しては,義満が厚礼であったのに,義持は尊大にふるまったという。義満のとき開始された対明外交を屈辱的という理由で廃止。神・禅宗への信仰厚く,ことに氏神八幡神を固く信じ,石清水放生会(ほうじようえ)には自身参向,また義量の死後神意を仰いで嗣子の生誕を確信していた。また禅宗の面では,1399年絶海中津より受衣(じゆえ)して道詮と称し,そののち空谷明応より顕山の尊号を受けた。相国寺鹿苑院内に蔭涼軒をはじめた。死に臨んでも禅の工夫を怠らなかった。
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百科事典マイペディア 「足利義持」の意味・わかりやすい解説

足利義持【あしかがよしもち】

室町幕府4代将軍足利義満の子。1394年義満の権力下で将軍に就任するが,異母弟義嗣(よしつぐ)への義満の偏愛で一時地位が危ぶまれた。義満の死後,1418年に上杉禅秀の乱に加担した義嗣を殺し,1423年鎌倉公方足利持氏を制圧,子義量(よしかず)に将軍職を譲って出家。しかし義量が早世したため,法体のまま将軍を置かずに執政。父義満への尊号辞退,日明貿易の廃止など義満時代の政治批判の傾向が強かった。
→関連項目玉【えん】梵芳倉見荘日本国王畠山満家満済准后日記

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朝日日本歴史人物事典 「足利義持」の解説

足利義持

没年:正長1.1.18(1428.2.3)
生年:至徳3/元中3.2.12(1386.3.12)
室町幕府第4代将軍。義満の嫡子,母は三宝院坊官安芸法眼の娘慶子。応永1(1394)年12月わずか9歳で元服して将軍に任官,正五位下に叙し,2年後参議,同13年には権大納言兼右大将に上る。しかしこの間父義満が依然として政務全般を掌握していたので,将軍位は傀儡に過ぎなかった。また父に叱責されて伝奏日野重光に救解を頼んだこともあり,義満との反目は深刻で,これが後年の施策に反映したとされる。同15年5月義満の死により親政を始め,宿老斯波義将,畠山満家らがこれを助けた。重要な政策としては,亡父義満に贈られた上皇の尊号を拒否して皇位簒奪路線を否定したこと,明への屈従を嫌って断交したことなどがある。また亡父の政庁である北山第を破却,移建して三条坊門第に移った。同19年には北朝の称光天皇を擁立したが,これが両朝和約に違反するとして飛騨・伊勢両国司らが蜂起,また同23年には関東に上杉禅秀の乱が起こるがいずれも短期に鎮圧され,義持の治世20年間は室町期中まれな安定期だったといえる。 親政後は内大臣に上り,同30年3月将軍を嫡子義量に譲るが,政務はとり続け,「室町殿」と称された。2年後義量が夭折し,将軍位は空位となった。このころ甲斐,常陸の紛争を機に幕閣では関東出兵が議されたが,宿老は「遠国融和策」を主張して出兵に反対,鎌倉公方足利持氏も幕府に譲歩して大事には至らなかった。晩年は護持僧三宝院満済が宿老会議の座長となり,重事は宿老の合議により決定された。義持の治政下に地方では守護領国制が進展し,大名,国人の諸家では家臣団の力が強化された。腫物の傷がもとで重態に陥ると,宿老らは義持自らによる後嗣指定を望んだが,嫡子のない義持はこれを拒否,ついに前代未聞のくじ(神判)による跡目決定となり,その結果同母弟の義教が選ばれた。これは当主の遺言よりも家老の意向が優先するという時代思潮を反映したものである。

(今谷明)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利義持」の意味・わかりやすい解説

足利義持
あしかがよしもち
(1386―1428)

室町幕府第4代将軍。義満(よしみつ)の側室藤原慶子を母に至徳(しとく)3年2月12日生まれる。1394年(応永1)9歳で元服し、正五位下左中将に叙任されて将軍宣下を受ける。参議、従三位権中納言(じゅさんみごんちゅうなごん)へと累進したが、政務の実権は父義満に握られ職名のみの将軍であった。義満が北山第(きたやまてい)を落成して移住したのちも室町第に住し、しかも晩年の義満が義嗣(よしつぐ)(義持の異母弟)を偏愛したため、義嗣との間に対立感情が生じた。義満死後、斯波義将(しばよしまさ)ら幕閣の支持で改めて地位を確保し、ひそかに関東や南朝方に通じ謀反のおそれのあった義嗣を捕らえて殺害させる一方、三条坊門に新第を築き幕政を固め、幕府の最盛期を迎えた。義満の太上天皇号辞退や日明(にちみん)外交貿易の中止、天竜寺を五山第一位とし五山官寺の綱紀を糺(ただ)すなど、斯波義将、細川満元(みつもと)、畠山満家(はたけやまみついえ)の歴代管領(かんれい)の献策、補佐で義満時代の弊風是正に努めた。1423年(応永30)嫡子義量(よしかず)に将軍職を譲って出家したが、義量早世のためふたたび法体のまま政務をみた。晩年赤松満祐(あかまつみつすけ)の播磨(はりま)守護職を取り上げ溺愛(できあい)する赤松持貞(もちさだ)に譲らせようと画策して満祐の怒りを買う事件などあったが、応永(おうえい)35年正月18日43歳で死去した。法号は勝定院殿顕山道詮禅定門。京都北山の等持院に葬られた。

[太田順三]

『臼井信義著『足利義満』(1960・吉川弘文館)』


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「足利義持」の解説

足利義持
あしかがよしもち

1386.2.12~1428.1.18

室町幕府4代将軍(1394.12.17~1423.3.18)。3代義満の子。母は三宝院坊官安芸法眼の女藤原慶子。法名勝定院顕山道詮。従一位内大臣・贈太政大臣。将軍就任後も,父義満は依然実権を掌握し,義持の異母弟義嗣(よしつぐ)を偏愛した。父の死後,斯波義将(しばよしゆき)の補佐で家督の地位を再確立するため,義将ほか管領を重用し,義満への太上法皇号宣下(せんげ)の辞退や対明通交の停止などを行った。また,北畠満雅の挙兵や上杉禅秀の乱を鎮定し,義嗣を殺害。のち富樫満成(みつなり)や赤松持貞ら近習が,将軍専制をめざして守護大名勢力と対立するが,いずれも大名側の反撃にあって失脚。嫡子義量(よしかず)に将軍職を譲り出家するが,義量はまもなく早世。その後,後嗣未決定のまま没する。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利義持」の意味・わかりやすい解説

足利義持
あしかがよしもち

[生]元中3=至徳3(1386).2.12.
[没]正長1(1428).1.18. 京都
室町幕府4代将軍 (在職 1394~1423) 。義満の子。母は藤原慶子。9歳で将軍職を継いだが,政務は義満がとった。応永9 (02) 年従一位,同 16年内大臣となる。同 15年に没した義満に太上法皇の称号を贈ろうとする朝議を辞し,また同 26年明との国交を断絶するなど,義満の施政を改めた。同 23年関東に起った上杉禅秀の乱に参画した弟義嗣を同 25年に殺害。同 30年には子義量に将軍職を譲って出家したが,2年後,義量が死ぬと再び政務をとった。死にのぞみ,男子がなく,後継者を指名せず,その選定を宿老にまかせた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「足利義持」の解説

足利義持
あしかがよしもち

1386〜1428
室町幕府4代将軍(在職1394〜1423)
義満の子。1394年9歳で将軍となったが,初め政務は義満によって決せられた。義満の死後,斯波義将 (しばよしまさ) らの補佐によって政務をとった。義満の始めた日明貿易を中止し,1416年上杉禅秀の乱に通謀したかどで弟義嗣 (よしつぐ) を殺し,鎌倉公方足利持氏を威圧した。'23年将軍職を子義量 (よしかず) に譲ったが,'25年義量が早世すると再び政務をとった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利義持」の解説

足利義持 あしかが-よしもち

1386-1428 室町幕府4代将軍。在職1395*-1423。
至徳3=元中3年2月12日生まれ。足利義満の長男。応永元年9歳で将軍職をつぐ。父の在世中は実権がなく,その死後,斯波義将(しば-よしまさ)らの支持で政務をとる。父への太上(だいじょう)天皇号辞退,明(みん)(中国)との貿易中止など,義満時代の政治をあらためた。応永35年1月18日死去。43歳。法名は道詮。法号は勝定院。

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367日誕生日大事典 「足利義持」の解説

足利義持 (あしかがよしもち)

生年月日:1386年2月12日
室町時代の室町幕府第4代の将軍
1428年没

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