橘御園(読み)たちばなのみその

日本歴史地名大系 「橘御園」の解説

橘御園
たちばなのみその

市域中央部から伊丹市・宝塚市・川西市に及ぶ猪名いな川沿いの広大な地域に散在していた摂関家の所領。周辺諸庄と複雑に入組むほか、一筆田畠に重層的に橘御園と他庄とが課役を徴収する権利を有している場合もあって、地域を特定することは困難である。もとは柑橘類を貢納するために設けられた園地で、果樹園や畠地を主体に構成された所領であったとみられる。摂関家領として成立した経過は明らかではないが、「定家朝臣記」の康平五年(一〇六二)正月一三日条に「橘御園」とみえ、内大臣藤原師実の春日詣に際し、同月七日分の飯二〇〇果が当御園に割当てられており、この頃には摂関家当主頼通(師実の父)の所領となっていた。以後摂関家領として伝領され、頼通からはその娘で後冷泉天皇中宮の四条宮寛子に譲与され、続いて寛子の養子となっていた藤原忠実(頼通の曾孫)の所領となり、忠実からはその娘で鳥羽天皇中宮の高陽院泰子に譲与され、同院領となった(建長五年一〇月二一日「近衛家所領目録」近衛家文書)。なお摂関家の春日社参詣の際の飯二〇〇果の割当は、正治二年(一二〇〇)近衛家実の同社参詣でも同様にみられ(「猪隈関白記」同年正月一〇日条)、鎌倉時代においても恒例の所出となっていた。また毎年五月五日の菖蒲の節句には垂水東たるみひがし(現大阪府吹田市)などとともに菖蒲三〇駄を摂関家に進上することも定められていた(執政所抄)

承暦三年(一〇七九)三月一〇日の某庄立券文案(壬生家文書)の署名者には神崎かんざきの伴氏等とともに「橘御園司藤井」の名がみえる。久寿三年(一一五六)当御園預所の藤原頼輔から「橘御園寄人等」に対して、奈良東大寺領田地の地子と五節供を難渋せず、先例に従って弁ずるよう命令が出されているが(同年二月一一日「修理権大夫藤原某下文案」東大寺文書)、この同寺領田地とは猪名庄のことであり、平安時代末期の当御園には、摂関家の寄人となり、近隣庄園の田地耕作を請負うような住人が居住していたことを示している。このほか久安三年(一一四七)頃と推定される一二月一二日の右官掌盛信請文(東南院文書)には「橘御薗散所雑色」がみえ、呉庭くれは(現大阪府池田市)山本やまもと御園(現宝塚市)の争いについて述べた後欠の某書状(陽明文庫蔵「兵範記」仁安二年秋巻裏文書)では「橘御園□内并舎人等負田等」に言及されているように、摂関家の舎人や散所雑色などの身分となっている住人もいた。当御園は猪名川沿いに立地していることから、彼らは運輸に関する雑役を摂関家に奉仕していたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「橘御園」の解説

橘御園 たちばな-みその

?-? 江戸時代中期の歌人
豊後(ぶんご)(大分県)杵築(きつき)藩士賀茂真淵(かもの-まぶち)(1697-1769)の門下で,長歌を得意とした。本姓宮島通称左内

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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