柿田村(読み)かきだむら

日本歴史地名大系 「柿田村」の解説

柿田村
かきだむら

[現在地名]清水町柿田

南流する柿田川(泉川)を境に堂庭どうにわ村の西に位置する。村域の南辺を狩野かの川が西流し、同川に柿田川が注ぐ。北西長沢ながさわ村。

〔中世〕

天文二二年(一五五三)三月一八日、今川義元は八幡やはたの八幡神社神主に対し、「柿田之内」に懸かる棟別・諸役を免除している(「今川義元朱印状」八幡神社所蔵文書)。永禄五年(一五六二)一〇月七日、今川氏真は甘利弾正忠に対し「彼地之内柿田原」を開発次第所務する権利を安堵している(「今川氏真判物」高田義金氏所蔵甘利文書)。武田氏に差出すべく用意された永禄一二年一月一八日の臨済寺領・天沢寺領等書立土代(臨済寺文書)には駿府天沢てんたく(今川義元菩提寺)領として「河東薦池・柿田郷」とみえ、薦池こもいけ(現三島市など)と合せて一〇年期の間、年貢一二〇貫文であった。これに対し同年四月二日には今川氏真が甘利源三に対し、「柿田村」の由比河内守知行分の代官を、本増五〇貫文の請負で命じている(「今川氏真判物」高田義金氏所蔵甘利文書)


柿田村
かきたむら

[現在地名]可児市柿田

瀬田せた村の北、可児川と久々利くくり川との間の丘陵北側にある。東は古屋敷ふるやしき(現可児郡御嵩町)明知あけち八郷の一。慶長一八年(一六一三)牛頭天王社(現八坂神社)に奉納された社殿再興棟札に「明智庄柿田村」とみえる。明暦覚書によれば、元和元年(一六一五)以降尾張藩領。概高七〇一石余。人数一九七、馬一九。御嵩みたけ宿(現御嵩町)への助郷高六〇二石(元禄七年「御嶽町助郷帳」野呂文書)近世中期頃から東柿田村・西柿田村(柿田村)に分れ、天和四年(一六八四)の吉利支丹宗門改一札(不破文書)に東柿田村の名がみえる。「濃陽志略」では柿田村の家数五〇・人数二五〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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