日本歴史地名大系 「栂牟礼城跡」の解説
栂牟礼城跡
とがむれじようあと
佐伯市と南海部郡の境界線上に位置する栂牟礼山(二二三・七メートル)山頂一帯に築かれた中世の山城跡。大永年間(一五二一―二八)佐伯惟治が築造、佐伯氏が五代にわたって拠ったと伝える(佐伯市史)。惟治は大永六年二月肥後の菊池義国らと通じ、主家(大友氏)に背こうとしたが露見し、大友義鑑は臼杵長景・佐伯惟常らに当城を攻めさせた。惟治は守りを固め菊池氏らの援軍を待ったが果さず、翌七年一月安全を保障されて開城したが、陥落の途中に惟治・千代鶴父子は討取られたという(「歴代鎮西要略」ほか)。義鑑は久保中務丞らの当城攻略における忠節を賞している(一一月一三日「大友義鑑感状」久保文書ほか)。なお一一月一六日の大友義鑑書状(工藤文書)に佐伯惟治成敗の際に栂牟礼城「切所、被詰寄之」とみえ、当城には切所(堀切)があったことがわかる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報