日本歴史地名大系 「古市村」の解説
古市村
ふるいちむら
- 大阪府:羽曳野市
- 古市村
古代古市郡古市郷(和名抄)の地、中世には古市庄があった。南北朝時代の延元二年(一三三七)には楠木方が古市に要害を構え、河内各地で細川氏の軍勢と戦っており(同年三月日「岸和田治氏軍忠状」和田文書)、建武四年(一三三七)一一月日の土屋宗直軍忠状(土屋文書)にも古市がみえる。運川寺蔵大般若経六〇〇巻のうち巻一五三の正平一五年(一三六〇)七月二日の奥書には「今日被越楠木了為攻古市之城云々」と記される。応仁の乱後の明応二年(一四九三)、河内合戦における幕府軍と畠山基家軍双方の陣所を描いた河内御陣図(福智院家文書)に「古市」がみえる。当地には畠山氏の高屋城が築かれ、同城をめぐる戦いでしばしば戦場となった。当地は西浦などとともに河内における
古市村
ふるいちむら
- 京都府:長岡京市
- 古市村
南は
長岡京の条坊復元図によれば、ほぼ五条二坊にあたるが、ここに東市があり、東市の故地であることから古市の村名が起こったと推定される。長岡京の東市は「続日本紀」延暦五年(七八六)五月三日条に「新遷京都、公私草創、百姓移居、多未豊贍、於是詔賜左右京及東西市人物、各有差」とみえる。同一三年七月一日には、平安新京に廛舎を造って市人を移している(日本後紀)。長岡京の東西市もかなりの施設を整え、賑いをみせていたものと思われる。
長岡京の東市が五条二坊にあったとするのは、発掘調査の結果ではなく、九条家文書に伝わる条里坪付図の坪の名称による。坪付図は里名の明示はないが、東北より西南に直線に走る京街道(久我畷)の痕跡を記すことや「神たり」などの坪名から当村東部から
古市村
ふるいちむら
古市村
ふるいちむら
行徳村の南に位置し、西端を千代川が流れる。
古市村
ふるいちむら
古市村
ふるいちむら
古市村
ふるいちむら
佐治川の下流部北岸にあり、対岸は
古市村
ふるいちむら
古市村
ふるいちむら
慶長以下各郷帳の村高一〇〇八・一石。近世の初め幕府領(代官北見五郎左衛門)、元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領となり、同藩の城和奉行所が置かれた。
古市村
ふるいちむら
古市村
ふるいちむら
古市村
ふるいちむら
古市村
ふるいちむら
- 群馬県:前橋市
- 古市村
西は
古市村
ふるいちむら
北陸街道に沿い、
福井藩領で、安永二年(一七七三)の福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によると、田方四反三畝・畑方四町。家数一〇八・人数四四八。農閑余業は米・とふし・苧・懸綿・蚕飼。用水は
古市村
ふるいちむら
古市村
ふるいちむら
古市村
ふるいちむら
- 大分県:別府市
- 古市村
亀川村の北、別府湾に面する砂丘上に位置し、村の中央を南北に豊前道(鹿鳴越)が通る。正保郷帳に
古市村
ふるいちむら
古市村
ふるいちむら
古市村
ふるいちむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報