古市村(読み)ふるいちむら

日本歴史地名大系 「古市村」の解説

古市村
ふるいちむら

[現在地名]羽曳野市古市一―七丁目・さかえ町・西浦にしうら一丁目・白鳥はくちよう一―二丁目・古市

誉田こんだ村の南にあり、東方飛鳥あすか村の北と南に飛地がある。東高野街道が南北に、竹内たけのうち街道が東西に走り、両街道の交差地点には、嘉永元年(一八四八)京都の町人井筒屋九兵衛の建てた道標が今もある。羽曳野丘陵が石川谷に落込む丘尾に位置し、集落は宝永元年(一七〇四)付替えられた大乗だいじよう川北岸にある。南岸の微高地には弥生時代の高屋たかや遺跡、高屋築山たかやつきやま古墳がある。このような地形の上に集落の形成は早くから進み、現在の誉田中学校から古市にかけての街道に沿って垣内かいとの小字名が続く。

古代古市郡古市郷(和名抄)の地、中世には古市庄があった。南北朝時代の延元二年(一三三七)には楠木方が古市に要害を構え、河内各地で細川氏の軍勢と戦っており(同年三月日「岸和田治氏軍忠状」和田文書)、建武四年(一三三七)一一月日の土屋宗直軍忠状(土屋文書)にも古市がみえる。運川寺蔵大般若経六〇〇巻のうち巻一五三の正平一五年(一三六〇)七月二日の奥書には「今日被楠木了為古市之城云々」と記される。応仁の乱後の明応二年(一四九三)、河内合戦における幕府軍と畠山基家軍双方の陣所を描いた河内御陣図(福智院家文書)に「古市」がみえる。当地には畠山氏の高屋城が築かれ、同城をめぐる戦いでしばしば戦場となった。当地は西浦などとともに河内における石山いしやま本願寺(跡地は現東区)の拠点の一つで、「天文日記」天文五年(一五三六)九月二八日条以下に地名が散見、当地の門徒が頭人を務めている。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]長岡京市神足こうたり

南は勝竜寺しようりゆうじ村、西は神足村、北は馬場ばば村に接する。

長岡京の条坊復元図によれば、ほぼ五条二坊にあたるが、ここに東市があり、東市の故地であることから古市の村名が起こったと推定される。長岡京の東市は「続日本紀」延暦五年(七八六)五月三日条に「新遷京都、公私草創、百姓移居、多未豊贍、於是詔賜左右京及東西市人物、各有差」とみえる。同一三年七月一日には、平安新京に廛舎を造って市人を移している(日本後紀)。長岡京の東西市もかなりの施設を整え、賑いをみせていたものと思われる。

長岡京の東市が五条二坊にあったとするのは、発掘調査の結果ではなく、九条家文書に伝わる条里坪付図の坪の名称による。坪付図は里名の明示はないが、東北より西南に直線に走る京街道(久我畷)の痕跡を記すことや「神たり」などの坪名から当村東部から樋爪ひづめ(現京都市伏見区)にかけての部分であることが判明する。坪の字名のなかに「ひかしたなつき」(東棚次)「下たなつき」「上たなつき」「れう」(寮)「てんにやく」(典薬)あやとり(綾取)「上はし元」(上橋本)「中はし元」などが記されている。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]篠山市古市

波賀野はがの村の南に位置し、武庫むこ川支流の波賀野川が流れる。北に倉谷くらたに山、南東になか山があり、両山麓を縫って摂津・播磨に通じる道がある。古くは春秋に丹後・但馬の牛を扱う市が立ち、河内・和泉の者らとともに取引したという。あるいは商売・交易の地であったが、中世に断絶、延宝元年(一六七三)に出願して復活され、六斎市が開かれたという(丹波志)蛭子えびす神社が祀られる。天正一五年(一五八七)九月の酒井庄内高帳写(酒井義一家文書)に古市村とみえ、高一八石余。また別に高二三石余の「鍵屋高右へ入」と記される。同年から文禄三年(一五九四)まで当地などの一帯が伊予国丸串まるくし(現愛媛県宇和島市)城主戸田勝隆の知行となっている(天正一五年九月日「戸田勝隆判物」酒井家文書)。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に村高の記載はないが、古市は波賀野村・油井あぶらい村の高のうちに含むと記される。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]鳥取市古市・行徳ぎようとく幸町さいわいちよう天神町てんじんちよう

行徳村の南に位置し、西端を千代川が流れる。鹿野しかの往来が通り、千代川の河原である古海ふるみ河原には対岸の高草たかくさ郡古海村とを結ぶ渡場があった。「和名抄」にみえる邑美郡古市郷の遺称地とされる。往古当地は古市千軒とよばれ、大きな市場があり栄えたという(因幡志)。拝領高は三三八石余、本免五ツ七分。安政五年(一八五八)の生高五四四石余、物成二八二石余、山役米一石六斗余・川役米四斗・藪役銀二匁余が課されていた(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)。毛利氏・太田氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数五四。安政五年の竈数五六(村々生高竈数取調帳)、余業に従事する家数八(「邑美郡村々余業人取調帳」太田垣家文書)


古市村
ふるいちむら

[現在地名]佐伯市稲垣いながき 古市・高畠たかばた

わき村の南西、番匠ばんじよう川両岸平地と後背段丘に立地。村名は中世佐伯氏の拠った栂牟礼とがむれ城の南東の城下町で市が立っていたことに由来するという。「栂牟礼実録」には、大永七年(一五二七)大友義鑑に攻められ栂牟礼城主の佐伯惟治が憤死したのちも同城にとどまった忠臣中に古市又五郎・同三郎五郎・同喜左衛門の名がみえる。また天正六年(一五七八)高城・耳川合戦で戦死した佐伯家中のうちに古市又四郎・同四郎五郎など古市姓一〇名がみえる。慶長豊後国絵図に村名がみえ、高一千四四石余。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]武蔵町古市

今市いまいち村の東に位置する。武蔵川左岸の平野部に水田が開け、東は伊予灘に面した海岸砂丘が連続する。武蔵川の河口には杵築藩の蔵が置かれ、古市浦は藩特産の青莚をはじめ郡内産物の積出港として栄えた。小倉藩元和人畜改帳に「浦手古市村」とみえ、高三三五石余、家数八一、うち百姓一六、名子・牛屋・庭屋・隠居六二、人数一四六、うち百姓一六・名子一七、馬一・牛一七。正保郷帳では武蔵郷に属し、田方二五七石余・畑方一六石余。天保郷帳では高三八六石余。寛文三年(一六六三)府内の橋本五郎左衛門が移入した七島藺の栽培を杵築藩初代藩主松平英親が当地で始めさせた。七島藺から織られる青莚は古市浦の仲買人の手によって浜倉に集荷され、大坂の七島莚問屋に送られていた(武蔵町史)


古市村
ふるいちむら

[現在地名]佐治村古市

佐治川の下流部北岸にあり、対岸は大井おおい村・苅地かるち村、東は葛谷かずらたに村に続く。北にある山道をたどると津野つの村に至る(因幡志)。村名は大井村に大井千軒おおいせんげんとよばれる集落が栄えた頃、当村に市場があったことに由来すると伝える。永禄四年(一五六一)八月吉日の福島甚二郎末国売券(来田文書)によれば、「つなし一円」「かるち一円」などとともに、「市は一円」の伊勢道者職が北弥七郎に売却されているが、苅地が中世佐治郷の開発領主佐治氏の本拠地といわれることや当地に市場があったという伝承から、「市は」を当地とみることもできるが確証はない。古市公民館の裏手に数基の五輪塔があり、「やまんどうさん」とよばれる。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]溝口町古市

北西から北に流れを変える日野川に北東流する野上のがみ川が合流する地点の河岸段丘上に位置し、北は中祖なかぞ村。村内を出雲街道が通る。中祖村は近世中頃に当村と宇代うだい村の入会地に開かれた(在方諸事控)。集落の南方に一一〇―一五〇メートルの急崖面をもつ海蔵寺かいぞうじ台地がある。伝承によれば、応永年間(一三九四―一四二八)この台地に進豊前守幸広が居住し、原野・山林を開いて三町余を得、四代幸経は台地の南部に垂水たるみ権現社を祀って湧水による用水池を設けたといい、五代幸寛は野上庄一〇社の神主を兼ね権力を保持したといわれる。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]奈良市古市町

岩井いわい川南部にあり、横井よこい村の北東。貞和三年(一三四七)二月の興福寺造営段米并田数帳(春日神社文書)には「古市地蔵堂田 不知田数」とあり、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)には「北円堂上生(講)田 添上郡古市」「古市 藤原也」「福嶋市正願院 号古市」とある。「多聞院日記」「大乗院雑事記」「経覚私要鈔」などには古市郷・古市庄・古市城・古市館・古市座関係の記事が多く所見する。古市は福島市ふくしまいちにちなむ(→福島市庄・古市庄・古市地蔵田

慶長以下各郷帳の村高一〇〇八・一石。近世の初め幕府領(代官北見五郎左衛門)、元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領となり、同藩の城和奉行所が置かれた。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]浜坂町古市

栃谷とちだに村の南に位置し、集落の東側を岸田きしだ川が流れる。同川を挟んで対岸東方の新市しんいち村と古くは一村で、杉谷すぎたに村と称し、往古は田公たきみ御厨(郷)の市場であったという(二方考)。岸田川沿いに浜坂往来が通る。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「すきたに」とみえ、杉谷には七釜城主田公氏の家臣である中村備後殿のほか黒坂美作殿・同和泉殿・井合三郎衛門殿や「寺さき殿」「志の原殿」「たふち殿」などが住んでおり、「けん志やう庵」・井本坊などの寺庵があった。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]安心院町古市

妻垣つまがけ村の西、深見ふかみ川右岸に位置する。北は上市かみいち村。地名は宇佐宮行幸会のとき当地に市を立てたことによるといわれ、行幸会の仮宮跡が北部の水田にある。この仮宮を中心として市が立ったという。地内宮田みやたは古くは用丸もちまると称していた。天正八年(一五八〇)一二月二〇日の安心院千代松丸寄進状(麻生文書)によると「安心院新開庄枝名用丸田地壱段」の下作職が妻垣神社に寄進されている。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]米子市古市

いま村の西、北西流する加茂かも川南岸にある。新山にいやまを越えて出雲へ至る道と米子城下から南進する法勝寺ほつしようじ往来との交差点にあたり、南方から延びた小丘陵下に東西に集落がある。村名は中世からの交通路に面する小市場であったことにちなむと考えられる。また当村に榎の大木があったことから当村一帯を含む榎原えのきはら庄の名が生じたともされる(伯耆志)。拝領高は五四二石余、本免四ツ七分。米子荒尾氏の給地であった(給人所付帳)


古市村
ふるいちむら

[現在地名]前橋市古市町・新前橋町しんまえばしまち

西は江田えだ村、北は元総社もとそうじや村、東は内藤分ないとうぶん村・小相木こあいぎ村、南は箱田はこだ村。元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)に、高六一四石八斗余、その内訳は田方五〇町二反余・畑方三三町七反余とあり、高崎藩領であった。正徳年間(一七一一―一六)の植野堰最初掘立御普請書(武井文書)では、全村高が植野うえの堰の用水を受けている。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]福井市古市町・古市一―三丁目

北陸街道に沿い、稲多いなだ村の北にある。慶長六年(一六〇一)九月九日付の結城秀康知行宛行状(山川家文書)に三国領として村名がみえ、高八七・四六石が記されるが、同一一年頃の越前国絵図では川合かわい庄に含まれていたと思われる。正保郷帳によると田方二一石余・畠方六五石余。

福井藩領で、安永二年(一七七三)の福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によると、田方四反三畝・畑方四町。家数一〇八・人数四四八。農閑余業は米・とふし・苧・懸綿・蚕飼。用水は河合春近かわいはるちか用水。舟二艘。神社は八幡宮があり、祭礼三月一五日・八月一五日とある。明治三年(一八七〇)の村長印鑑帳(鈴木家蔵)によれば家数一二〇。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]白山町古市

雲出くもず川上流左岸段丘上に東西に広がる。南出みなみで村の南。対岸は川口かわぐち村。中世は小倭おやまと郷に属する。慶長一七年(一六一二)の大山法度(成願寺文書)に小倭郷の一としてあお山の入会に加わっている。近世は慶長一三年以降津藩領。元和五年(一六一九)以降和歌山藩白子領木造組に属する。寛文七年(一六六七)の戸数三三(白山町文化誌)、明治二年(一八六九)の大指出帳(徳川林政史蔵)によると家数四六、人数一四八、牛一三。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]城川町古市

三滝みたき川と黒瀬くろせ川の合流点にある山村。両川に沿う道の交差する三差路には、街村が形成される。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「古市村 柴山・茅山・小川有」とある。

太閤検地の石高は六五石三斗六升六合、耕地面積の比率は田四〇パーセント、畑六〇パーセントであったが、寛文検地では田四三パーセント、畑五七パーセントで、面積は二倍に増加している。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]別府市古市町・亀川浜田町かめがわはまだまち内竈うちかまど 古市

亀川村の北、別府湾に面する砂丘上に位置し、村の中央を南北に豊前道(鹿鳴越)が通る。正保郷帳に竈門かまど庄に属する古市村がみえ、田方一二七石余・畑方三一石余。水損所の注記がある。当時は高松藩領で、以後の領主の変遷は野田村に同じ。寛延元年(一七四八)の横灘中竈門人数等改帳(秋吉家文書)によると竈数七四・人数三五四、牛四二・馬五、田六町四反余、生姜栽培三畝余・七島藺栽培一町五反余。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]久住町栢木かやぎ 古屋敷ふるやしき

峰越みねごえ村の東に位置。集落は肥後街道に沿う。「豊後国志」は、当地を古代の直入駅の所在地とする。正保郷帳に村名がみえ、朽網くたみ郷に属し、田高八石余・畑高二三石余、水損所とある。弘化物成帳では栢木組のうち、村位は下、免三ツ、田二七石余(三町二反余)・畑三二石余(七町一反余)、屋敷一石余(一反余)で、開田五斗余(二反余)・開畑二石余(四町七反余)がある。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]吉川町古市

実楽じつらく村の南西に位置し、美嚢みの川と支流北谷きただに川の合流点に立地する。北西は加東かとう横谷よこだに(現東条町)。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は門前もんぜん村に同じ。正保郷帳では田方一一九石余・畑方一八石余。村高は幕末まで変わらない。


古市村
ふるいちむら

[現在地名]北部町下硯川しもすずりかわ 古市

台地の西側斜面にあり、南は田畑たばた村、北と西は柚木ゆのき村に接する。「国誌」によれば五町手永に属し、「小豆尾ト云小村アリ」とある。宝暦一二年(一七六二)の下ケ名寄帳では田畑村と併記され、古市村は田畑合せて一五町五反九畝余・高一四五石九斗余で、うち一三町六反七畝余が給知であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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