栃堀村
とちぼりむら
守門岳の北西部山麓にある。守門岳の渓谷より源を発した刈谷田川は村の中央を貫流し、集落を東西に分ける。西は小向村・赤谷村、北は大川戸村・菅畠村。東谷のなかでも最大の集落。その規模は東西一八町、南北三町二〇間に及ぶ。大同年間(八〇六―八一〇)佐々木万太郎・万次郎の二人によって開かれたとの開村伝説があり、この時栃の木を折って測地したことから橡折の地名があるという。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)によると、同一五年から一七年の間に上杉氏の被官城次郎左衛門尉・古志六郎右衛門尉・塚田右京亮の給地が栃堀にあった。明応六年(一四九七)七月五日の大関政憲外三名連署役銭注文(同文書)には栃堀平右衛門と「栃堀地主」の名がみえ、栃堀地内の増沢の役銭を納入している。現在も平右衛門沢の地字が残る。この二人は弥彦の祭神に従って来住したとの伝承もあり、当地は弥彦神社領であったとも伝える。
栃堀村
とちぼりむら
[現在地名]上川村広谷 栃堀
常浪川左岸に位置し、北は高出村。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「栃堀 百廿二石一斗二升」とある。元和六年(一六二〇)の漆木役は九七六本五分(津川旧記)。貞享二年(一六八五)の地下風俗家業旧例改帳(玉木敏雄氏蔵)によれば初春から葺板材を伐り、耕作の合間には養蚕を営んで収納の足しにした。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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